 |
このページは Internet Explorer プラウザ画面の
表示(V) → 文字のサイズ(X) → 中(M)
でレイアウトデザインをしております。
|
文字サイズを 大(L)
又は 最大(G) とした場合には段落等大幅に乱れますのでご了承ください。
|
|
|
|
| Disc
No. 067 |
Title
No. CDR-YSHD-051-00 |
| New
Japan Philharmonic -
Daishin Kashimoto - Seiji Ozawa |
 |
新日本フィルハーモニー交響楽団
|
CDR-YSHD-051-00
|
小澤征爾
|
1998.06.20
|
樫本大進 (Vn)
|
墨田トリフォニーホール
|
:
|
FM/VHS
|
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
|
1998.11.13
|
サン・サーンス:交響曲第3番
|
70'16
|
: |
★★★★☆ OIDT |
|
| 新日本フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 小澤征爾指揮 弦楽対抗配置のサン・サーンス |
◆既にフランス国立管弦楽団を振って英国EMIへセッション録音をしていた小澤さんだが、ボストン交響楽団ではついに録音できなかった。オルガン絡みの曲だけに、手兵と本拠のオルガンを使って録りたかったんじゃないかと想像したりもするのだが、DGはソッポを向き、PHILIPSにはボストン響との契約はなく・・唯一EMIがフランスのオーケストラとならいいよ・・などと言ったかどうか・・これも確か何処かの大聖堂のオルガンとの合成録音だったような気がする。小澤さんの師匠たるカラヤン先生の録音を真似したのかどうかは判らないが、合成録音というのは上手くいった例がない。同じ空間の同じ空気を揺すらなければ、音と音とは交わらないのだ(当たり前!)。ましておや、交響曲とは響きが交じると書くのだ。現実離れしたサウンドなど・・正に嘘の塊みたいなサウンドで、これに継ぎ接ぎの編集などが加わったら、時空間のパラメータは混乱の極みともなる。だいたいにおいて、オルガンの鳴らないオーケストラパートだけの録音現場では、指揮者や楽員の霊感に訴えるものがなくて、気持ちが燃えまへんがな。。単にお仕事としてのユニット制作現場に成り果てる危険もおます。オルガン奏者との阿吽の呼吸もなく、オーケストラの・・もはや動かしがたい録音済みのテンポに必死に合わせてるうちに・・なにか肝心なことを忘れてしまったりして・・・唯一イイこと?といえば収録の精度(鮮度)が楽に維持できるくらいなもので、演奏者側には何のメリットもない愚策極まる録り方なのだ。時間芸術たる音楽のあり方から言っても、合成など絶対するべきではない。。
◆東京墨田区が造ったトリフォニーホールは、新日本フィルの移転絡みながら、最終目的は何と言っても天下の「オザワ」だった。サイトウ・キネンとの絡みを除けば、日本での活動拠点は新日本フィルだけだ。色々なしがらみでN響と疎遠になった小澤さんは海外で活路を見出し、今や世界の頂点に君臨するまでになった。ご本人の努力の賜物なのだろうが、師匠がダントツ抜きん出た存在だったことが運命を切り開く大きなエネルギーにもなったのだろう。。時の運も重なって・・ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに出ることなども、ボストン響との長年の実績がなければ無理だったかもしれない。そんなこんなを予見したのかどうか・・新日本フィルは何が何でもオラがホール(本拠)を持って小澤さんを迎える準備をしなければならなかったのだ。このホールとの専属契約?も小澤さんの名前がなければスムースにコトが運ばなかったんじゃないか・・などとヤボな推察をしたりしているのだが、いざ出来てみると・・なんじゃこれは!?というような落ち着かないデザインの客席にビックリたまげることにもなったのだ。デザイン優先で・・心理学を含んだ人間工学が全く解っていない・・これ見よがしのセンスでステージに向かって両サイド2層のバルコニーが強い傾斜を伴ってサウンドステージへ突き刺さっている。。
◆昔、スーパーソニックラインとかいったクルマのサイドライン(一直線のスパッと空気を切り裂くようにフロントからリヤへ向かって尻上がりに傾斜したイメージラインをはしらせた)が流行ったが、動的イメージのクルマのラインとは全く次元が違うのだ。コンサートホールの「ライン」は空気を切り裂く必要も無く、波動を融和させることに使わねばなるまい。なによりも、人間の平衡感覚を逆撫でするようなことでは話にもならない。。音響的な問題は棚に上げても・・このデザイン(設計)は大失敗だ。しかしながら・・音響実験はとにかくも定期演奏会でも続いていた。なんと、楽器配置とホールの響きの関係を日本で初めて考えたオーケストラとなったのだ。ボストンを始め、ゴールデンザールやフィルハーモニーを含めて、世界の主要ホールを総なめ?した小澤さんだからこそできることだったのかもしれないが、そのお陰かどうか、珍しい対抗配置によるサン・サーンスが聴けてしまうのだから・・ありがたい限りのことになった。左(ステージ下手)から聴こえるバスの響きなども含めて・・この曲では初めて聴くサウンドバランスだ。オルガンも堂々として分厚い響きは申し分なく、肝心の打楽器も腰砕けになることなく・・結尾のティンパニーもしっかりとした打ち込みが一打毎に迫力満点に突き抜けて曲を締め括った。 |
|
|
|
| Disc
No. 068 |
Title
No. CDR-YSHD-052-00 |
| Wiener
Philharmoniker - Myung Whun Chung |
 |
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
|
CDR-YSHD-052-00
|
チョン・ミュンフン
|
1995.06.16
|
:
|
コンツェルトハウス、ウィーン
|
ドヴォルザーク:交響曲第7番
|
FM/VHS
|
ムソルグスキー
|
1996.04.22
|
組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
|
73'02
|
: |
★★★★★ OIDT |
|
| ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 特別演奏会 チョン・ミュンフン指揮 奇跡のORF名録音 |
◆この年の2月に定期演奏会との絡みでドヴォルザークの第7交響曲(&第3交響曲)をゴールデンザールでDGへ録音したチョンさんが、今度は芸術週間で担当ホールだったコンツェルトハウスで同じ演目を振った。商業録音と放送録音、楽友協会とコンチェルトハウス・・といった条件の違いを楽しむことのできる音源を手にできることは悦ばしい限りだ。シリーズ録音であるかのように、続いて第5と第8交響曲のCDがリリースされたが、肝心の「新世界から」を含む残りの交響曲はプッツリとリリースが途絶えてしまった。(←2005年7月現在) チョンさんとドヴォルザークとの組み合わせは今ひとつピンとくるものがないが、ウィーン・フィルハーモニーが全曲録音!ともなれば・・クーベリック&ベルリン・フィルの全集など同じDGにあって霞の如くに陳腐化するかもしれない。ベルリン・フィルよりも、クーベリックという名前がモノを言った全集だが、アップライトなサウンドはベルリン・フィルを使った意味さえない。マゼールもDGで第7交響曲(から9番まで)をウィーン・フィルと録音したが、開放的な8番に比べると・・ニ短調という調性の影響かどうか・・些か陰に籠もる楽想だ。従って、オーケストラのサウンドもなんとなくマイクに載りにくいようで、どうしてもくすみがちな音色となってパッとしない。しかしながら、凝縮されたサウンドエネルギーが長調に転じて・・パァーッと解放される時の爽快感もまた格別で、作曲者の心境のウネリが七変化する様は・・特に舞曲調の第3楽章では哀愁を帯びながらも最高潮にハイになって・・フィナーレの達観の境地へと傾れ込むのだ。
◆「展覧会の絵」は、余りにも広大なダイナミクスを持つスコアの音化において録音では至難の楽曲だ。大抵においては、収録に安全装置を使うことが常道ともなって、調整卓でのフェーダー操作との組み合わせでエンジニアの手腕が験される。問題は、収録レヴェルをどこに合わせるのかでダイナミクスの上と下の処理の仕方も変わってくるのだ。放送局では・・DAT(リニアPCM)での収録が世界の標準のようになった現在においては、将来の商品化(CD化)のこともあって、多分・・収録段階では・・ほぼストレートにマイクで拾ったサウンドを収めているんじゃないかと思うのだが、放送用にコピーする段階でそういった処理が行われるのではないかと想像している。ORFからNHKに送られてくるテープもそういった処理済みのDATのハズだ。「展覧会の絵」は、そんなような観念(諦めの境地?)で「キエフ」へと進むことになるのだが、このORFの録音は・・だからこそ・・ホンマかいな!と我が耳を疑うほどの鮮烈極まるテュッティーの炸裂を持っていた。もっとも、FMのキャパとしては・・という前提でのことなのだが、少なくとも音の萎縮や潰れが少ないのだ。じゃぁ・・あの時のカラヤンの生放送はいったいなんだったんだぁ!・・とついつい愚痴を言いたくなるほど、フツウに聴く限りでは放送録音にして百点満点なのだ。ORF奇跡の録音!と言っても過言でないほどの音源は、ムジークフェラインでの収録に比べて吊りマイクに入ってくるオケの直接音が格段に多く、メリハリ感が俄然と充実しつつ・・ドライかすかすなサウンドではなく・・ウィーンの香りはキッチリと漂う。粘りっ気のある独特のウィンナホルンの強奏や締まりのいいティンパニーの打音・・絶対にキンキン悲鳴を上げないシルキータッチのストリングスなどなど・・ウィーン・フィルのオリジナリティ溢れる素晴らしい音色と共に高揚する様には本当に痺れる。このエアチェックからS/N86dB(STEREO)の新しいFMチューナーで受信しているが、再放送のこの音源と初回の放送における旧チューナーでの受信音調の差は、旧チューナーが暫しの間不調不安定だったとはいえ、不快な混入ノイズからの解放と若干の鮮度向上をもってエアチェックの精度向上に大いに貢献した。 |
|
|
|
| Disc
No. 069 |
Title
No. CDR-YSHD-053A/B-00 |
| Disc
No. 070 |
Berliner Philharmoniker
- Sir Simon Rattle |
 |
 |
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
|
CDR-YSHD-053A/B-00
|
サイモン・ラットル
|
2002.09.07
|
:
|
フィルハーモニー
|
:
|
FM/VHS
|
アデス「アサイラ」
|
2002.11.10
|
マーラー:交響曲第5番
|
24'47|69'09
|
: |
★★★☆☆ |
|
| ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 新音楽監督就任披露特別演奏会 サー・サイモン・ラットル指揮 |
◆新ジンルイのラットルさんが、まさかベルリン・フィルのシェフに就任するとは思わなかった。選択が「吉」と出るか「凶」と出るか・・・10年後に明らかになる。オーケストラのシェフとの熟成はそれほどの年月を要するのだ。長い目で見てヨ!・・という言葉の語源は此処に在り。10年後を予想するには、これも「石の上に」3年を要する。3年経って初めて、10年先が霞の中にボンヤリと浮かんでくる。実像の修正は後半の5年間で仕上げなければならない。ここで成功すれば、事実上の終身栄誉を獲得できるのだ。前任監督だったアバドさんは、10年というスパンで何ができたのだろう。。勿論日本のN響を除く他のオーケストラでの音楽監督在任歴10年!・・などとは同じ10年でも係わりの密度が全く違って、それなりの「量」もあったのだろうから・・アバド&ベルリン・フィルの関係ブランドもそこそこ浸透はしてたことになる。フィラデルフィアのようにメジャーレーベルからスパッと切られたわけでもなかったが、カラヤンのような大攻勢をかけたわけでもなかった。ジルベスターコンサートの中身は年々歳々ベルリン・フィルが脇役化の傾向を辿り、「ベルリン・フィルのジルベスター」と称するのも憚られる歌モノ主導となって、オーケストラの主商品たる管弦楽曲が置き去りにされたような印象を持ったものだった。ベートーヴェンとブラームスという楽団十八番の作品がキッチリと録音に残せたが、その他は全て散発的なリリースともなってブランドに対するフォーカスが甘くなっていた。。一時(いっとき)のソニークラシカルへの録音もパンチ力に欠けて決定打ともならずに宙に浮いたままだし、肝心のベートーヴェンも同じコンセプトでありながら、ラットル&ウィーン・フィルの前に玉砕同然となって選択肢の一つとしても浮上しない有様だ。ラットルへの交代は、成るべくして成ったともいえる・・楽団として背水の陣での選択だったのかもしれない。。
◆ラットルさんにも個人的には幾多の不満(不安)を持っているが、何年か先に「手兵」とのベートーヴェン交響曲全集の録音を完成させるまで様子を見ようと思うようになった。最近のウィーン・フィルとの合同演奏会などは、空前のリーダーシップでの成果でもあったが、音楽監督として丁度3年という時間が経過する「今」(←2005年9月現在で・・)に、就任当初からどのように変貌したのかという・・確証を探す楽しみを持とうと思っている。残念ながら、この組み合わせでの契約レーベルは・・英国EMIオンリーになってしまったようだが、DGのジャケットデザインもあのような有様に成り果てたからには、もはやどこのレーベルが録ってもCD購入の意欲は無きに等しい。ただひたすら・・ライブ音源のオンエアに期待して、嘘の無い本物の「演奏」からベルリン・フィルの将来を予見したらいいのだ。。因循姑息に陥っては勿論ダメなことながら、「本家の伝統」を見失ってはオーケストラの「存在」自体がくすんでしまう。クルマと違って、オーケストラの「基本」であるベートーヴェンとブラームスのサウンドをどのように見直して、新しいサウンドバランスを創生するのか・・が勝負のポイントだ。21世紀のベートーヴェン!・・などという表現をよく目にするが、ベートーヴェンでも他の作曲家の作品でも・・世紀が変わってガラリと印象が変わることなど有り得ないことだ。例え、ベーレンライター社の新商品を音化したものでも、それはスコアの音であって、時代の音じゃない。21世紀のベートーヴェンとは・・21世紀にものごころがついて・・21世紀の環境で専門教育を受けた俊才が・・自らの閃きで因循姑息な演奏法を打破して・・楽器編成や楽器バランスに独自の理想を被せて・・聴衆が腰を抜かし・・世間が認めて・・それが今後のスタンダードと成り得る演奏スタイルのこと・・を云うのだ。2001年1月1日は21世紀のスタートとなった大いなる記念日だが、新世紀の「初日の出」を拝んでも・・時の流れや環境には全く変化はないのだ。。それにしても・・マーラーの5番で・・ポストホルンがやけに大きくピックアップされた違和感を感じたが、指揮台横でのコンチェルトソリスト級の待遇での吹奏だったらしい。映像(DVD)を見ていないので疑問に思ったことだが、ラットルさんも粋な演出を心得ていらっしゃる。パフォーマンスとしての演奏会で・・こういった「ズームアップ」をすることは・・堅物クラシックスのイメージ打破には必要欠くべからざることになると確信している。。 |
|
|
|
| Disc
No. 071 |
Title
No. CDR-YSHD-054-00 |
| Wiener
Philharmoniker - Sir Simon Rattle |
 |
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
|
CDR-YSHD-054-00
|
サイモン・ラットル
|
2002.05.07
|
:
|
ウィーン楽友協会大ホール
|
ベートーヴェン
|
FM/VHS
|
交響曲第8番
|
2002.11.10
|
交響曲第6番「田園」
|
74'38
|
: |
★★☆☆☆ |
|
| ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会 サー・サイモン・ラットル指揮 ベーレンライター版の功罪 |
◆世にある最も新しい(2005年6月現在)ベートーヴェンの交響曲全集の中では、世界の両雄ウィーン・フィル(ラットル指揮)とベルリン・フィル(アバド指揮)が奇しくも同じコンセプトでプルトを刈り込んだ軽量タッチのベートーヴェンで勝負している。。ここに至った経緯は、紛れも無く18世紀オーケストラ(ブリュッヘン指揮)や
Orchestre Revolutionnaire et Romantique - 日本語化不能!(ガーディナー指揮)による小編成古楽器のオーケストラによる録音や、ヨーロッパ室内管弦楽団(アーノンクール指揮)による正に室内管弦楽団での全集録音のそこそこのヒット・・そしてダメ押ししたのが、ベーレンライターという楽譜出版社の新校訂スコア(戦略商品として)による初録音を謳ってのチーリッヒ・トーンハレ管弦楽団(ジンマン指揮)による超格安最新録音盤CDの大ヒットが火を付けたんじゃないかと思っているのだが、トーンハレ管弦楽団は一応グランドオーケストラとしてグローバルスタンダードとなる16型(16-14-12-10-8)の弦楽奏者を擁しながら、1番では10型(10-8-6-4-3)、
2・4・8番では12型(12-10-8-6-4)、そしてその他の交響曲でも14型(14-12-10-8-6 )というプルトを削っての録音となってビックリするほどの斬新な音響効果を炸裂させていたのだ。14型の弦楽編成というのは、日本では一応プロと名の付いた地方オーケストラが見栄を張ってギリギリ維持できる頭数でもあって、月に一度だけの定期演奏会には各プルトのトラを奮発して・・せめて天下のN響並みの陣容で・・として累積赤字をどんどん溜め込んでいるのが現状なのだが、本来使えるプルトを削ってまで編成規模を確定する根拠は、格安CDのための原価計算に成り立った参加楽員へのギャラの節約か・・若しくは純芸術的な立場からの「響き」の質をそれなりに追求した結果か・・二つに一つしか考えられない。。
◆アバドは、創設者としてヨーロッパ室内管弦楽団との関係を維持しつつ録音も継続したし、ラットルは、本家英国でマッケラスに傾倒して、古楽器による小編成のオーケストラの奏法などを随分と学んだとのことを聞いたことがある。。レコード会社も二匹目のドジョウ?を狙って、同じ路線を要求したんじゃないかと思うのだが、そういったご両人なのでスンナリと話が進んだのではないかと想像したりもする。アバドは、本当はベルリン・フィルよりももう一方の手兵ヨーロッパ室内管弦楽団で録音したかったんじゃないかと思うのだが、なにせアーノンクールが既に手をかけていたのでやむを得ずベルリン・フィルを使ったような気もするのだ。カラヤンの時にはほぼ全員参加(18型)ができた弦楽奏者たちだが、大幅に削られたプルトによって演奏会や録音(特に録音は臨時収入に係わる)に参加できなかった楽員は不満タラタラだったのかもしれない。ベートーヴェンといえば、ベルリン・フィルの屋台骨だ。これを演奏できないということは、楽員としての沽券にかかわる重大事態でもあるのだ。ベルリン・フィルがアバドさんに嫌気がさした理由の一つだった可能性もある。ラットル&ウィーン・フィルのベートーヴェン交響曲全集制作の一環としても演奏されただろう2曲のヘ長調の交響曲は、ORFのマイクでは鮮烈というよりも・・響きの薄さが大いに気になった。古楽器のオーケストラのように、挑発的な刺激感もなく、楽器(特に管楽器とティンパニー)の発声が至極中途半端なのだ。弦楽器の人数が少ないので相対的に管楽器の響きが浮かんでくるが、ポジティブな躍動感にはつながらない。ティンパニーなど・・ホンマにウィーン・フィルなの?・・と我が耳を疑うほど元気がないのだ。響きの薄さだけが耳に残って、8番でもリズムが思ったほど弾まない。田園交響曲の第1楽章なども、ラットルさんの御歳に似合わずゆったりとしたテンポなので、余計に薄い響きが気になってしまう。。当時の日本公演でも同じような編成で第8&第5交響曲を演奏したが、TV画面に映ったベートーヴェンを演奏するウィーン・フィルの規模には唖然となってしまった。(記憶違いでなければ・・確か12型で演奏したハズだ。)ブレンデルとのピアノ協奏曲全曲の演奏は交響曲に準じた編成規模だったのだろうか・・? 世紀の大失敗!といってもいいベーレンライター版からの錯誤に基づくグランドオーケストラの迷いの表れのような気がして・・・世界の両雄まで巻き込んでしまった新校訂スコアの影響力を滑稽にも感じている。朝比奈先生やカラヤン先生がご健在だったら・・この顛末いったい何と仰ったのだろう。。 |
|
|
|
| Disc
No. 072 |
Title
No. CDR-YSHD-055-00 |
| NHK
Symphony Orchestra - 75th Annverssary - Zubin Mehta |
 |
NHK交響楽団
|
CDR-YSHD-055-00
|
ズービン・メータ
|
1996.11.08
|
フローレンス・クイヴァー (Ms)
|
サントリーホール
|
:
|
BS/VHS
|
マーラー
|
1997.04.18
|
亡き子を偲ぶ歌
|
79'23
|
交響曲第1番 |
★★★★☆ OIDT |
|
| NHK交響楽団 創立75周年記念特別演奏会 ズービン・メータ指揮 |
◆ベートーヴェンが生まれてから226年、没してから169年経ったこの年にN響は75歳の記念イヤーを迎えた。既にグローバルスタンダートとなったN響は、クォーターセンチュリー(四半世紀)毎の区切りでもって、フィルハーモニカーの顔ともなったメータを招聘して記念演奏会を行った。N響の第1回定期演奏会のプログラムでもなく、多分メータにお任せの選曲だったのだろうが、当初は確か同じマーラーでも2番だったか3番だったか・・もっと大規模な作品を上演する予定だったようだ。なにやら、ソリストの都合か何かで準備が間に合わなくなって、急遽こういったプログラムに変更されたようだ。楽曲的にはグワッグワッグワッ・・っと盛り上がって聴き応えも十分なのだが、前半「亡き子・・」だけでロービーへ出てワインを飲んでも、気持ちの盛り上がりに欠けるような気がしている。記念演奏会(祝賀的な・・)なのだから、やはり演奏会の冒頭は賑々しくドシャーーン!と迫力満点な楽曲で飾ってほしかった。こういった時には、マーラーさんの作品の中に、序曲や交響詩のような短くも魅力的な楽曲が無いし、ましておや楽器をフューチャーしたコンツェルトなども無いときてるので・・1番や4番をメインにマーラーだけで一夜のプログラムを作るのには苦労するのだろう(というよりも・・限定されてしまう)。2番の第1楽章などは、初稿では交響詩として単独に作曲されたものだから、25分の交響詩として冒頭を飾ってもよさそうだなのだが、なにせ「葬列」をイメージした楽曲なので、祝賀的記念演奏会には・・ちょっとなぁ・・てなことになりかねない。。
◆それにしても、定期演奏会だけでも月に3種類各々2回の公演を熟している日本唯一のグローバル規格のコンサートオーケストラが、専用のホールを未だに持てない(計画さえない)というのはどうしたことだろう。。まともなオーケストラもないような地方都市にパイプオルガンが備わった二千席規模の音楽専用大ホールが自治体の箱物建設の一環として津々浦々林立している現状にあって、こういった記念演奏会を一応の本拠ではなく・・いくら「音」がいいといっても・・借り物の空間でやらなければならないという不幸な現実をNHKはなんとも考えていないのだろうか?・・。大阪に中途半端な局内ホール(それでも1500席!)を造るくらいなら、世界のNHK(優秀な放送交響楽団はもちろんのこと、屈指の専用音楽ホールもあるでよ!?)を手っ取り早くアピールできる最有力広報コンテンツなのだ。BBCにもORFにもないコンテンツとしてHPで鼻高々に宣伝できて、それこそベルリンのフィルハーモニーのように、練習から録音まで全てを賄える空間となるのだ。受信契約者の中から毎月抽選で何人かを交通宿泊費込みでN響定期演奏会に招待します・・てなことになれば、クラシック音楽に興味のないお方も東京見物でもすっか・・てな気持ちにもなって、ついでにホールの荘厳な雰囲気に呑まれつつN響のサウンドを聴いてしまうかもしれない。。掛かる経費は、支局から本局への出張経費の感覚で計上すれば毎月何人かのご招待費用など微々たる割合だ。こういったサービスをしてこそ、人口比3%と云われているポジティブなクラシック音楽愛好者のためだけの無駄遣い!となることから意識改革にもなるのだ。2005年現在84歳となったN響だが、創立100周年記念演奏会は何が何でも「NHKシンフォニーホール?」でやらねばなるまい。・・そういえば、昔・・そんな名前の番組を白黒TVの画面で見てたような記憶がある・・。。マーラーの青春の歌ともいえる第1交響曲は、学生時代にクーベリック指揮バイエルン放送交響楽団のLP(DG)で初体験を果たしたが、CD化となってリマスターもされたが、もはやこの録音は次元の違う迫力だ。演奏自体も「ニッポンのオーケストラ」を感じる部分皆無にして、弦・管・打楽器全ての音にはポジティブな勢いがあって音色にも不満無し。曲想がこんなだから・・ヘタクソなオーケストラでも最後はなんとか盛り上がるが・・ここに聴くN響は、ウィーン・フィルのような香りこそ無いものの、最近のベルリン・フィルには引けをとらないほどサウンドにエネルギーが充満している。 |
|
|
|
| Disc
No. 073 |
Title
No. CDR-YSHD-056-00 |
| NHK
Symphony Orchestra - Herbert Blomstedt |
 |
NHK交響楽団
|
CDR-YSHD-056-00
|
ヘルベルト・プロムシュテット
|
1996.09.18
|
スティーブン・コワセヴィッチ (Pf)
|
NHKホール
|
:
|
BS/VHS
|
ベートーヴェン
|
1996.09.20
|
ピアノ協奏曲第4番
|
76'52
|
交響曲第5番 |
★★☆☆☆ |
|
| NHK交響楽団 定期演奏会 ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 N響初の対抗弦楽配置! |
◆創立75周年を迎えた1996/97シーズンのオープニングコンサートだ。TVの画面を見て我が目を疑った。。コントラバスがステージ下手(左側)に置いてあるのだ。少なくとも、初めてN響を「見た」中学生の時以来・・初めての楽器配置の変化した光景だった。その衝撃は、N響が一気にコンヴィチュニー率いるゲヴァントハウス管弦楽団の次元へ飛んだような視覚的凄み?を感じて、TVのスピーカーによる画面のモニターに飽き足らず。思わずオーディオ経由のサウンドを付けての本格的なリスニングへと発展したのだ。左右に振り分けられた対抗配置のヴァイオリンの掛け合いはもちろんのこと左チャンネルから湧き出るバスの波動は、先入観を覆すプロセスなのか・・平衡感覚が狂ったような不思議な感覚にも見舞われた。こういった左右バランスのサウンドは他のオーケストラでは何度も体感済みなのだが、長年続いた「オーケストラ固有のサウンドバランス」が変化した時には、そのオーケストラのイメージをもう一つ加えてメモリーし直さねばならないのだ。電話で突然「Hellow!
This is Mr.X in HongKong・・」などと掛かって来た時に、頭の中が一瞬パニクってメモリー回路がショートするのと似てるような・・(凡人だからこその特技?)・・情けないハナシだ。
◆伝統あるオーケストラで動かしがたいパラメータとしては、第1にピッチ(A=?Hz)、そして「聴き合い」でのアンサンブルの基本となる楽器の並びだ。最近のベルリン・フィルとウィーン・フィルとの合同演奏会では、両雄の固有ピッチを変えて臨んだという。。もの凄い決断だ。また、楽器の並びについては、本来ならば客演指揮者はそこまで要求できないハズだ。壁崩壊まで古風な伝統の残ったままの旧東ドイツで演奏活動をしていたブロムシュテットさんにとっては、やはりご自身に定着したサウンドバランスでもってベートーヴェンを聴かせたかったのだろう。。N響音楽監督としてシャルル・デュトワが就任したのは確か翌年(97年)のことだったと思うので、この時はまだウィーン・フィルのような客演指揮者の入れ替わりでコトを運んでいた時期だ。従って、楽器配置変更の決断は楽団長と事務局長との合議(だったかどうか?)に因ったものと思うのだが、因循姑息の塊みたいだった親方日の丸のN響が・・よくぞブロムシュテットさんの我儘?を呑んだものと感心した。後年のスヴェトラーノフさんでも遠慮したことなのだから、本当に「よくぞ!」押し通したものだ。どういう訳か、これ以降には地元のオーケストラでさえ対抗配置で演奏する機会が増えたような・・そんな波及効果もあったようだ。N響でもそうした・・という「前例」は、この紋所!となって・・客演指揮者でも要求が通るようになったのだ。(勝手な思い込みかも?) 肝心の演奏は、珍しくベートーヴェンで熱狂的拍手となるほどのものだった。残念ながら、2ndヴァイオリンが剥き出しの対抗意識を見せていないのが音にも表れて(単純にマイクに載らなかっただけかも?)見え隠れする憂き目に甘んじていたが、コントラバスはハッキリと軍団の存在を誇示して分厚い低音でアンサンブルを支え、ティンパニーを含めてテュッティーではパンチの効いた炸裂を呈したのだ。どういう訳か不明だが、マスターテープに一部不快な低域ハンブルノイズがあった。CDR化を断念せざるを得ないギリギリのボーダーラインだが、対抗配置のN響・・ということだけでCDRにしてしまった。。本来なら「看板に偽り有り!」となって、即刻廃盤にすべきところなのだが・・なぜかできない。ノイズがなければ★4級ともなった。。こんなマスターVHSがゴロゴロしている。当時のエアチェック環境(特に電源関係)の不整備を後悔している。。 |
|
|
|
| Disc
No. 074 |
Title
No. CDR-YSHD-057-00 |
| Argerich
Music Festival 2001 - Martha Argerich - Antonio Pappano |
 |
別府アルゲリッチ音楽祭2001
|
CDR-YSHD-057-00
|
アントニオ・パッパーノ
|
2001.04.22
|
マルタ・アルゲリッチ (Pf)
|
別府ビーコンプラザ
|
:
|
BS/VHS
|
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
|
2001.08.24
|
シベリウス:交響曲第2番
|
78'26
|
: |
★★★★☆ |
|
| 別府・アルゲリッチ音楽祭2001 マルタ・アルゲリッチ(ピアノ) アントニオ・パッパーノ指揮 |
◆日本有数の温泉地「別府」でかくも盛大な音楽祭が催されるとは想像さえできなかったが、アルゲリッチというこれも世界最高のピアニストが音楽監督を務めるという特大の看板を背負ってのことだ。毎年必ずアルゲリッチが聴ける環境を得た別府市民(の中のクラシック音楽が好きなお方)はなんという幸せ者なんだろうと羨ましく(恨めしく?)思っている。かくなる上は、愛しき人(現実的には幻想交響曲の世界)を同伴して、別府の湯に浸かりながら人生の垢を落とし・・ドップリと地酒に酔いしれながら浴衣姿(入れてくれるかなぁ?)でコンサートホールへと向かう・・なぁんちゃっての夢を実現すべく(ドン・キホーテの心境で)何事にも励まねばなるまい。。せっかくこのような素晴らしい音源を手にしたからには、温泉の素で色のついた湯船で汗をかいて・・愛しの猫姫を膝にのせてグイッっと麦酒でも飲りながら・・・時空を遡ってチャイコフスキーを聴こうか・・・尻尾付きの毛むくじゃらとでは・・・予行演習にもなりまへん・・・。
◆気を取り直して、この演奏会。本当に・・意外にも・・予想をはるかに超えた充実感で満たされた。OB(プロの奏者?)が加わっているとはいえ、現役学生が中心となる東京芸術大学のオーケストラは・・言わば俗に言う「学生オケ」だ。いくら芸大の最高峰たる東京芸大とはいえ、プロのオーケストラとは次元が違うハズなのだ。これでは、せっかくのアルゲリッチさんの目の覚めるようなテンポ感についていくだけが精一杯となって、ヘタをすれば演奏崩壊の恐れもある。万一アルゲリッチさんが手心を加えてテンポでも落としたら・・今度はアルゲリッチを聴く意味さえなくなってしまうのだ。中途半端なアルゲリッチでは、多分そこそこ高額のチケットを買った聴衆も不満が残り、音楽祭自体の評判にまで波及することになる。。せめて九州交響楽団、できたらN響を呼んでくるくらいなことをしないと・・アルゲリッチのブランドに傷がつくんじゃないかとヤボな先入観でもって聴き始めた。。
◆ところがどうだ・・「名無しの権兵衛」同然の東京芸大オーケストラは、チャイコフスキーから堂々と音楽を主張して白熱のアルゲリッチと「競奏」したではないか!・・「目から鱗」とは正にこのこと。先入観などあっという間に吹っ飛んで、パッパーノのドライブをスリル満点に楽しんじゃったのだから恐れ入る。もう、学生オケの次元を超えて、・・いやプロのオーケストラなどのレヴェルでもなく、アルゲリッチと同格の輝きとなって眩しいほどの火花が飛び散ったのだ。火事場の馬鹿力という言葉もあるが、人間の潜在能力というのは、その置かれた環境によっていとも簡単にアップダウンして、アップした場合の凄いパワーは無意識の中で発生するらしい。若い奏者たちはもの凄い練習を積み重ねての努力の成果でもあったろうが・・当日の異様なまでの高揚した雰囲気の中で無我夢中になって自分達の音楽をアルゲリッチにぶつけたんじゃないかと思うのだ。時代劇などの殺陣ではお目にかかれないが、本物の真剣と真剣が命がけで交わるときには盛大な火花が飛び散る。。正にそんな危険極まりない雰囲気の中で演奏が進み・・相打ちで両者果てることなく汗みどろの引分けとなって名誉ある撤退となったのだった。マンガチックな名前が災いして「匠」のイメージにほど遠い指揮者は、ベルリン・フィルからも声がかかるほどの優れ者だった。パッパーノさんの情感溢れるシベリウスでのテンポ感にもしっとりと応えるオーケストラの音色は柔らかくも充実して、聴く者の心を熱くした。結果的には、「名無しの権兵衛オーケストラ」が、なんと・・・主役となっていたのだから音楽監督として鼻高々だったんだろうなぁ。。
それにしても・・音楽監督アルゲリッチの名誉を守りきってた功績は絶大だった。
NOTE: CD-Rジャケットカードのイメージ画像は YU K.様のサイト(MARTHA
ARGERICH RECORDINGS)から拝借させていただきました。 |
|
|
|
| Disc
No. 075 |
Title
No. CDR-YSHD-058A/B-00 |
| Disc
No. 076 |
NHK
Symphony Orchestra - Valery Gergiev |
 |
 |
NHK交響楽団
|
CDR-YSHD-058A/B-00
|
ヴァレリー・ゲルギエフ
|
2002.11.20
|
:
|
サントリーホール
|
チャイコフスキー
|
BS/VHS
|
交響曲第3番「ポーランド」
|
2002.11.29
|
ストラヴィンスキー
|
54'12|40'03
|
バレエ音楽「春の祭典」 |
★★★★☆ |
|
| NHK交響楽団 定期演奏会 ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 奇才ゲルギエフ初登場! |
◆LP(アナログ)の時代には、チャイコフスキーといえば4番以降の録音ばかりで、オーマンディやメータが録音しても発売されるまでには至らなかった。1番から3番までの初期作品と名のつく新鮮な交響曲は、商業ベースには載らなかったのかどうか・・ましておや、演奏会のプログラムとして演奏されることなど滅多に無かったんじゃないかと思っている。作品への先入観による軽視は、カラヤン先生が(レコード会社が?)交響曲全集を作る目的のためだけに70年代後半にセッション録音をしてLPがリリースされるまで続いた。後年、CDで1番「冬の日の夢想」から単発されてからというものは、ドラティの古い(ながら結構いい音で聴ける)録音を始め・・最近ではオーマンディの録音までCD化された。ドヴォルザークの試作交響曲とは違って、初期とはいえ1番から既に・・的を得た感情の起伏とロシア独特のセンチメンタリズムが色濃く漂い・・感動を誘う優れものの名曲だ。時代と共に楽曲の評価は推移するが、何時もお決まりのプログラムでは飽き足らなくなった肥えたリスナーが増えて、録音や演奏会に載せる秘曲の第1期生としてチャイコフスキーの1番から3番までの交響曲が定着したことは悦ばしい限りだ。ゲルギエフが選んだのは、5番と共にバスドラムを使わず、6曲+マンフレッドの中で唯一「長調」の明るい(ハズ)の曲想をもつ第3交響曲なのだが、なんともかんとも憂鬱に始まるところが面白い。既にロシアの香りで充満して題名の「ポーランド」などとの愛称は棚に上がってしまうのだ。チャイコフスキー自身が名づけたわけでもないこの愛称はなんとかならないものかと思う。ポロネーズのリズムを使っただけで・・国名を冠してしまうような短絡的な名付け親など歴史のメモリーから削除したらいいのだ。随分長い間「運命」と呼ばれた交響曲も、よほどのボンクラレーベルでない限り第5番ハ短調作品67の後には何も付けなくなった。若者の無垢の心に感動を呼び込むためには、作曲者自身が付けた題名以外には、先入観を持たせるようなヤボな愛称をつけるべきではないのだ。・・しまった!・・ジャケットカードの曲名にはしっかりと
>Polnische< と書き込んでしまったぁ。。言行不一致にして m(_ _)m!・・・
◆キーロフ歌劇場は、故ムラヴィンスキーのオーケストラと同じ地にあっても、ゲルギエフ登場までは歌劇場バレエ団の名声だけに甘んじていた。メトロポリタン歌劇場のオーケストラは、ウィーン・フィルを真似て「METオーケストラ」としてCDデビューするも、余りの高額ギャラと市場の冷遇から打ち上げ花火で終ってしまったが、かつてのデュトワ&モントリールと同じく、ゲルギエフ&キーロフの路線は大ブレイクして一気にメジャーへと成り上がった。安いオーケストラと新進奇才指揮者の組み合わせは、レコード会社の懐を潤す絶対条件なのだ。シェフが「フィルハーモニカー」の指揮者にでもなれば、自動的にオーケストラの格もアップする(?)。そんなゲルギエフさんがN響を如何にドライヴするのか・・スヴェトラーノフさん初登場の時とは全く違う期待感を抱いてワクワクのリスニングともなっていた。結果はやはり◎!。コマーシャルベースに載っかった指揮者の評判というのは決定的なもので、過去の録音の成果がベースとなって・・楽員たちも対抗意識を燃やすための具体的な標的としてフォーカスが絞りやすくなるものだ。初期作品とはいえ、5楽章からなる大型の交響曲(メインプログラムでも通用する)を前半に据えたゲルさん(失礼!)の意気込みはやはり音にも表れて、後半にあの「春祭」が控えているにもかかわらず・・前半から目一杯の満身白熱の演奏でゲルさんを盛り立てたのだ。BSのリニアPCM音声の自然なダイナミクスはOIDTの必要もなく十分な迫力を伴うのだが、マイクで捉える放送音源でのリスニングの場合には、なぜかサントリーホールよりもNHKホールの方がオーケストラの爆裂の感じがよく判る。ワインヤードでステージ後方にも客席があって、その奥にはパイプオルガン(バックヤード)の空間もあってか・・拡散音場でのマイクへの集音は一長一短が顕著に出るようだ。NHKホールのステージ後方反響板から一斉に跳ね返る音響エネルギーのマイクへの載り方は素晴らしい迫力を伴って、例えS席といえども・・2階のバルコニー席で聴くよりも格段にいい音で聴ける場合が多々あるほどだ。演奏会に身を置いた時とオーディオ(マイクロフォン)経由で聴いた時との大いなる落差は、コンサートホールの素晴らしい音響特性も録音では足を引っ張って迫力不足の大いなる原因の一つにも成り得るような気がしている。 |
|
|
|
| Disc
No. 077 |
Title
No. CDR-YSHD-059A/B-00 |
| Disc
No. 078 |
Master
Players Wien - Live in Tokyo - |
 |
 |
マスターズプレイヤーズ
ウィーン
|
CDR-YSHD-059A/B-00
|
指揮者無し
|
2002.10.18
|
古田恭子 (Vn)
|
オーチャードホール
|
ダンツィ:協奏交響曲
|
BS/VHS
|
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
|
2002.12.06
|
ベートーヴェン:交響曲第7番
|
54'52|45'20
|
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」序曲 |
★★☆☆☆ |
|
| マスタープレイヤーズ・ウィーン 東京公演 トヨタ自動車のオーケストラ? |
◆冠コンサートは一時銀行などが盛んにやってたのだが、バブルがはじけて不良債権を抱えて身動き取れなくなるに従って順次衰退していった。正に「ゲンキン」を額縁に入れたような掌の返し方なのだが、行員の給料はほとんど維持されて世間からは侃々諤々の議論も沸き起こったこともあった。我が身を保身して庶民を切るというお役人的な考えが抜けない中身を自ら曝した滑稽な成り行きでもあった。。一口に冠コンサートといっても色々あるが、抽選でご招待・・というコンサート(要するにタダで聴けるということ!)ほどストレスを溜めて帰路に着くパターンが多かった。先ずは、タダだからいってやるか・・というお客の根性が災いの元ともなる。それが顕著に表れるのが演奏終了後の拍手だ。パラパラパラ・・となんとなく始まってあっという間に止めてしまうことが多いのだ。結構な熱演をして満足げなオーケストラの楽員も怪訝な顔で客席を見てる。。満身の炸裂でホールがブルブルっと震えるくらいのメインプログラムの白熱の演奏でも、1〜2度のカーテンコールの後では今にも止まりそうな弱々しい拍手と化して、オーケストラが立ちっぱなしで指揮者の再登場を待つといった気遣いさえ見せたこともあった。そんな時でも、用意してたアンコールの小品を演奏したのだから、冠スポンサーとの契約とはいえ、楽員としてはさぞかし情けない思いをしたんじゃないかと思っている。。タダだからきいてやっか!というお客は、一応演奏を聴くのだが、どうも王様気分が過ぎで楽員の「仕事」は当たり前という世界においでになるみたいなのだ。従って、熱演を讃えることもなさらずに、映画館の感覚で演奏が終ったら直に家路につくことをお考えになるようだ。「聴衆としての演奏へのリアクション」「コンサートへの参加」などの概念は「お客さん」として招待されたご身分の中には存在しないのだ。客席ノイズ(言わずもがな・・)の甚だしいこともあってか音楽に集中できないことも多々あった。演奏する側も、そんなこんなの中で「お仕事!」と割り切ったことにもなって、収入のためとはいえ、こんな演奏会で穴埋めするようでは目的とした芸術の核心にまでヒビが入るようで、教育目的以外で熱意のないお客を相手に演奏などしてはならないのだ。
◆さて、この奇妙な名称のアンサンブルだが、正式名称には冠となった日本を代表する企業の名前が最初に付く。日本一としてのプライドは、中途半端なニッポンのオーケストラなど論外のことだったのだろう。。ウィーン・フィル本体を招聘するにはチト経費がかかりすぎるので、なんとウィーン・フィルの選抜メンバーによるミニチュアオーケストラを創ってスポンサーぶりをアピールしたのだ。銀行の地元オケ起用の冠コンサートは完全無料ご招待だが、こちらはちゃっかりとそこそこの値段をつけて、全額丸出しというような「損」をしない仕組みとなっているのだ。16名(5-4-3-2-2)の弦楽器に2管の編成は、単体でも「室内管弦楽団」として古典楽曲を演奏できるだけの陣容を持ってはいるが、地元のオーケストラの不足した楽員の穴埋めにもピッタリのサイズだった。単独の演奏会のみならず合同演奏も行ない、地元のオーケストラは、ウィーン・フィルと共演できるまでになった・・と喜び、ウィーン・フィルの選抜メンバーは、懐を厚くしてホクホク気分で帰路についたのだ。指揮者のいないミニ・ウィーン・フィルのサウンドは、ベートーヴェンの第7交響曲の凄みを表現しきれなかった。オーチャードホールのそこそこ巨大な空間は、安全運転で燃えきらないエネルギーを持て余してしまった。。500席程度のホール空間が丁度手ごろな5型2管の「オーケストラ」が2000席の空間でどうやって爆裂するんだろう?・・酒乱の狂宴と呼ばれるベートーヴェンの第7交響曲なんぞを誰が選曲したのか知らないが・・中途半端な金欠酔っ払いがストレス溜めながらもっと飲ませてよ!!と喘いでいるような不完全な目の回り方?をして、リズムの波動は気持ちを揺すらない。もう2杯飲んだら超ハイになって踊りだすのになぁ・・なんていうボヤキ声が聞こえてきそうな雰囲気でもあった。あっ!・・なんか体験談しゃべちゃったような・・・未成年の飲酒は固く禁じられております!。えェぇ・・万一このガクダンを気に入って・・・ウィーンで聴こうとしても・・・・存在してませんから!。・・・・・・・・・ざんねーーん!! |
|
|
|
| Disc
Nos. 079/081 |
Title
Nos. CDR-YSHD-060A/C-00 & CDR-YSHD-960-00 |
| Disc
No. 082 |
Bayrauther
Festspiele 2002 - Christian Thielemann |
 |
 |
バイロイト音楽祭
2002
|
CDR-YSHD-060A/C-00
|
クリスティアン・ティーレマン
|
2002.07.25
|
:
|
バイロイト祝祭劇場
|
ワーグナー
|
FM/VHS
|
歌劇「タンホイザー」
|
2002.12.25
|
第1幕|第2幕|第3幕
|
59'50|73'00|56'02
|
: |
★★★☆☆ |
|
 |
 |
バイロイト音楽祭
2002
|
CDR-YSHD-960-00
|
クリスティアン・ティーレマン
|
2002.07.25
|
:
|
バイロイト祝祭劇場
|
ワーグナー
|
FM/VHS
|
歌劇「タンホイザー」
|
2002.12.25
|
序曲&第3幕
|
70'46
|
: |
★★★★☆ OIDT |
|
| バイロイト音楽祭2002 歌劇「タンホイザー」 クリスティアン・ティーレマン指揮 CD-R化初!オペラ全曲盤 |
◆CDのこじんまりとしたパッケージングではあったものの、あの額縁(DGのイエローレーベルのこと)の中にフィルハーモニア管弦楽団と共に刻印されたティーレマンのデビュー盤は、泣く子も黙るベートーヴェンの5番と7番という激烈なカップリングだった。奇才ティーレマンは、スコアの行間からとんでもないインスピレーションを導き、「絶えず白無垢」のフィルハーモニアにたたき付けた。従順即応力抜群の元英国EMI専属レコーディング専用オーケストラとしてのDNAは、指揮者の意向に逆らうことなく「お仕事」としての演奏に専念させた。結果としてとんでもないことになったベートーヴェンは、フルトヴェングラーの再来か・・とも騒がれ、そのショックの余波はウィーン・フィルにまで及んだ。このデビュー盤の衝撃が無ければ、バイロイト登場にも興味が湧かなかったかもしれないほどだ。。前年の創立125周年記念公演での「第九」を任されたのも、ハウスのシェフとしての立場もあるだろうが、やはり、一種独特の表現力を持つ「大器」としての素質を認められてのことじゃないかと思ったりしている。なにせ四半世紀に一度だけの「第九」なのだ。どっかの国の年末とは次元が違うのだ。
◆「タンホイザー」はドレスデン版で演奏された。従って、序曲はバッカナールの後に巡礼の主題が壮絶に盛り上がって終止和音で完結する「大序曲」と化して、オペラの冒頭から既に感動の渦を撒き散らすこととなったのだ。。巡礼のテーマが戻らず・・バッカナールは発展するものの萎むように終る(正に原理的?には理屈が合う)パリ版でもってワーグナーの管弦楽曲アルバムを作る指揮者もいるが、このヴァージョンはなんとなく不謹慎でもあり聴いてる方にとっては些かストレスが溜まるのだ。やはり、ナニの後は浄化をしないと・・精神的な愛は満たされない。タンホイザーの序曲は何と言ってもドレスデン版に限る!。公私共にオペラ嫌いを認める立場にあって、歌手がどうだのこうだのと言えた義理ではないが、タンホイザー役のグレン・ウィンスレード(テノール)の嫌味の無い歌いっぷりには聴き惚れた。声質が甘く、トゲがないところなんぞは聴き疲れもしない。肝心の管弦楽(これに絆されて聴いてしまうのだ)は、マイクで拾っているから当然至極なのだが、ホンマ本当に鮮烈で凄まじい迫力を伴う優れものの収録だった。左右に振り分けられたヴァイオリンを始めとして、ティンパニーもボケることなく締まりのある打ち込みを示し、終結では満身の一打をもって括られる。ロールのままアヤフヤに終る演奏の多い中で、ケジメ?をつけた打音というのは清清しささえ感じるものだ。
◆初めてのオペラのCD-R化のためのエアチェックは、深夜にかけてのリアルタイムとなり、VHSテープの交換で標準モードに収まった。祝祭劇場のリアルな音場感に満たされたライブ録音は、申し分のない音質で蘇り、最高級の音楽ソフトとしてコレクションの一角に加わった。ティーレマンは「ポスト・ラットル」の最有力候補として、正統ベルリン・フィルを復活させる救世主となるべく、カラヤンの辿った道を歩んでいるかのようだ。ひょっとすると、ベルリンより先に「ポスト・オザワ」でウィーンを牛耳るかもしれない。。ティーレマン&ウィーン・フィルのベートーヴェン交響曲全集なら、予約してでも入手したいアイテムだ。シュトラウスもいいが、フィルハーモニアとのデビュー盤からどんなに変貌と遂げた(進化した)かを早く聴かせてもらいたいと願っている。なお、第3幕のCD-R収録時間の余裕もあって、聴き所の多い第3幕の頭にドレスデン版の大序曲をくっつけてしまった。言わば「トリスタンとイゾルデ」の第1幕前奏曲と終幕最後の「イゾルデの愛の死」をくっつけてしまう手法の拡大版みたいなものだ(?)。大序曲から第3幕への前奏曲へのつながりは結構イケて、短時間に全曲聴いた気分に浸れるお手軽チックな優れものとなった。せっかくのオペラなのでせめて対訳を見ながら・・との目的でバレンボイム指揮(ベルリン国立歌劇場)の同曲CDを買いに走った。意味が分かると何となく視界が広がったような感じで、オペラにおける言葉(歌詞)の理解は重要課題であることを再確認した。後日、VHSマスターの整理をしたら・・ダンボールの中に1989年のバイロイト音楽祭での「タンホイザー」(シノーポリ指揮)のBS録画テープを見つけた。確かパリ版による演奏だったと思うが、字幕付の映像があって、慌ててCDを買いに走ることもなかったわけだ。ホンネを言えば・・バレンボイムのCDは、音楽雑誌の広告に絆されての「ジャケ買い」だったのだ。。m(_
_)m |
|
|
|
| Disc
No. 083 |
Title
No. CDR-YSHD-061-00 |
| Nagano
1998 Winter Orchestra - Seiji Ozawa |
 |
長野1998・冬のオーケストラ
|
CDR-YSHD-061-00
|
小澤征爾
|
1998.02.07
|
:
|
長野県民文化会館
|
ベートーヴェン
|
BS/VHS
|
交響曲第9番「合唱付」
|
1998.03.29
|
:
|
79'44
|
|
★★★★☆ OIDT |
|
| 1998年長野冬季オリンピック開会記念「第九」特別演奏会 小澤征爾指揮 Wキャスト!オザワの「第九」 |
◆1998年に長野で開催された冬季オリンピックは、開会式で「喜多郎」が「木遣り」をテーマとした音楽で盛り上げ、サイトウ・キネンの本拠地としての縁もあってか、オザワさんも記念公演を持った。サイトウ・キネンと新日本フィルを核として・・ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ボストン響、シカゴ響、ロンドン響、バンベルグ響など世界30ヶ国の管弦楽団主席級奏者でウルトラ・スーパーオーケストラを創り、空前絶後の「第九」を演奏したのだ。コンサートマスターの席にはウィーン・フィルのキュッヒルさんが座り、オーボエにはあの・・宮本さんが居る。ホルンにはヘグナーさん、クラリネットにはシュミドールさんが居るなど・・目も眩むほどの豪華絢爛たる陣容で16型フル編成のオーケストラが構成されたのだ。「長野1998・冬のオーケストラ」という奇妙キテレツ超ヘンテコリンな名称が臨時につけられてしまった手前、誤解?を恐れたNHKは、珍しくもセクション毎に参加奏者全員の名前をテロップで流した。誰が名づけたのか分からないヘンテコリンな名前のオーケストラではありますが・・こんなにも凄い奏者たちが世界中から集まってくれました。。過去弊局の楽団にては甚大なるご迷惑をおかけしましたが・・今や「世界のオザワ」となられたからには・・天下の「親方日の丸」も通用しませんので、ここにオザワ様の呼びかけで世界中から集まった素晴らしい奏者の方々に敬意を表し、オザワ様の抜きん出た実力とご人徳からの賜物として感謝を捧げつつ・・誠意をもって中継させていただく所存であります・・などと謳ったかどうか?は定かではない。。
◆ベートーヴェンの第九交響曲が、これほど晴れがましく鳴ったのは久しぶりじゃないかと思う。ベルリンの壁の崩壊を記念したバーンスタインの「第九」は敗戦国ドイツを代表してバイエルン放送交響楽団が核となり、そこへ戦勝国(旧占領国)のオーケストラの奏者たちが混ざっての演奏だった。意義の重さから言えば「こっちの第九」なのだろうが、フロイデ(喜び)がフライハイト(自由)へと変えられた歌詞は、繰り返し聴くうちに鼻に衝くようになるような感じがするのだが・・「歴史的記録」としての意味合いで「音源」を持っていること自体に満足させられる不思議な音盤でもある。。オリンピックも最近は商業化が進んで、舞台裏を覗けば・・選手たちは商売道具の一部として利用されて・・逆に選手たちもそれを当てにしたりして・・本来のスピリットなど無きに等しい状況ともなっている。開会式は、まるでエンターテイメントショーの如くになって、スポーツマンシップなどあってないような・・極めてダラけた雰囲気に成り果てしまって、人類の新ジンルイ化についていけないことを開き直って諦めることにしている。(そうでなければ、今の若いもんは・・と絶えずボヤかねばならない!?)
◆オザワさんの「第九」は、若かりし頃のニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのセッション録音でも、最近のサイトウ・キネンとの録音でも・・極めてオーソドックスだ。これといった特別なデフォルメチックな表現もなく、中途半端な音量で聴くとポートレートのような美麗な音の流れに漂うことができる。しかし、特に、サイトウ・キネンのような性格の「楽器の集合体」から発せられる音塊の重量感は・・相応な音量をもって再生した時にこそ初めてその真価が分かることになる。。この臨時編成のオーケストラの性能は、おそらくサイトウ・キネンさえ凌ぐほどの音色とパワーを秘めた存在となって、オザワさんの威信をかけた意気込みを支えたのだが、オザワさんはオーケストラに留まらず・・史上初めて?ともなる特別な「仕掛け」をアレンジさせていた。新人級ながら・・オーディションで選抜された若き優秀なソリストを2組用意して、Wキャストとして左右に振り分け陣取らせ、なんと!フレーズ毎に右から左へ・・左から右へ・・受け渡しをするという「一大珍事!」を創生したのだ。こんなことは、「イヴェント第九」の頂点でもある「一万人の第九」でさえやらないことで、喜びの気持ちを「受け渡す」といった意味合いなのだろうが・・これがホンマ面白い!。ステージ配置も其々のソリスト陣を合唱団最前列で左右一杯に離したこともあって、オーディオ的にも特異なステレオ効果を演出している。この「効果」が嫌味に感じることなく・・記念演奏会での特別なアレンジだったことを「音」の中だけでも認識できる見事な成果として残ったことは大慶の限りだ。ソリストは以下の通りとなっている。・・ソプラノ:イザベラ・ラブータ&クローディア・ウェイト、アルト:ジャン・チャオ&ルース・ビール、テノール:アンソニー・ディーン・グリフィー&ダウィン・ヒューズ・ジョーンズ、バリトン:デニス・セドフ、ケヴィン・ショート、合唱団は東京オペラシンガーズ(28-21-21-21)が出演した。 |
|
|
|
| Disc
No. 084 |
Title
No. CDR-YSHD-062A/B-00 |
| Disc
No. 085 |
Wiener
Philharmoniker - Jessye Norman - Seiji Ozawa |
 |
 |
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
|
CDR-YSHD-062A/B-00
|
小澤征爾
|
1999.08.15
|
ジェシー・ノーマン (S)
|
ザルツブルグ祝祭大劇場
|
ワーグナー
|
BS/VHS
|
楽劇「トリスタンとイゾルデ」より
|
Live on Air
|
<前奏曲とイゾルデの愛の死>
|
36'34|71'23
|
ブルックナー:交響曲第9番 |
★★★★★ |
|
| ザルツブルグ音楽祭1999 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 演奏会
小澤征爾指揮 世界のオザワ・・カラヤン先生を語る |
◆俗に「十年一昔」という言葉もあるが・・この演奏会はオザワさんの師匠カラヤン先生が亡くなってから・・丁度10年目のことだった。1954年に単身で来日して・・N響と共に「新世界から」を演奏していたカラヤンを・・近所のそば屋のTVの画面で初めて見た・・といったことから始まるオザワさんの思い出話は10分にも及び、カラヤンの公私に渡るエピソードなどが温かくも淡々と語られている。ご自身が始めて振ったオペラ(コシ・ファン・トゥッテ)が丁度このザルツブルグの劇場でのことで、カラヤン先生から手取り足取り?教えてもらった・・などと懐かしく語っておられるご様子には、文献などの活字の世界では味わえない・・ニンゲンチックな雰囲気が溢れて、帝王などと呼ばれて恐れられたカラヤン先生の存在さえ身近に感じられる・・いいお話を聞かせてもらった。。余りにもいいお話だったので、CD-R(062A)トラック1として・・永久保存させていただくことにした。
◆そんな奇跡のような経歴を持ち、今や世界最高峰のマエストロの一人ともなったオザワさんだが、録音の世界ではなぜか「決定打」が少なく、特にウィーン所縁の古典の世界では・・一時のブームとなって大ヒットした「ニューイヤーコンサート」のライブCDを除いて・・全くのノーヒット状態でもあって、本当に悔しい思いをさせられているのだが、よくよく考えてみると・・我々リスナーの方が「時代の影響」をモロに被って、ニンゲンの本来の感覚(感性)を大いに狂わされた結果・・正統的に凄いハズのものが見えなく(聴こえなく)なってしまったのではないかと思うのだ。興味のベクトルの先にあるものは、「変わった表現」「刺激的な表現」「今までにないような表現」・・要するにスコアに書かれた情報を100%上手く表出しただけでは物足らない時代に突入してしまったようだ。世界の両雄でさえ、「新時代への適応」とかなんとかの大義名分で古(いにしえ)の奏法を勉強せざるを得ない雰囲気に追い込まれたのも、古きものが新しく感じるルネッサンス感覚なのだろうが、オーケストラとしての「進化」した歴史に誇りを持っていなかったという情けないエヴィデンスともなって、時代の影響の恐ろしさをマザマザと見せつけられたことにもなったのだ。
◆この演奏会でも、特別に変わったフレージングなど欠片も無い極正統的な演奏に終始して、その安定したサウンドは・・さすが天下のウィーン・フィル!・・と感心しっぱなしだった。ただ、なぜか、そんな中にもゾクゾクさせる不思議な雰囲気も漂って、ノーマンさんのドスの利いたピアニッシモで始まる「愛の死」からは強靭な吸引力で別世界へと吸い込まれるような妙な感覚にもなってしまっていた。オザワさんにとっては、カラヤン先生の十八番だった楽曲を・・同じステージで・・同じソリストで・・そして同じオーケストラで演奏することは、何よりの「供養」ともなったハズだ。当然にして、「教え」を受けた事細かな演奏表現の一部始終を実現させなげればならなかったハズでもある。ノーマンさんの巨体(失礼!)から、イゾルデの熱く迸る感情が沸き起こった時、この「熱さ」は・・単にノーマン=イゾルデだけのものではないような錯誤に陥った。棒を振っているのはオザワさんでは無く「カラヤンの魂」であり、スコアの解釈云々というような物理的な次元を超えたところで、オザワでもなくカラヤンでもない「本物」のワーグナーが蘇っていた。。天上のカラヤンは、ワーグナーとブルックナーに面会し、このステージに連れて下り、愛弟子に途轍もない「響き」をプレゼントしたのだ。ブルックナーの「浄化の極み」のハーモニーに安心したご一行は、満心の笑みを浮かべて帰路に着いた。。W)オザワという男・・なかなかやりまんなぁ・・あんたが下界で振ってた頃を思い出しましたでぇ〜・・B)あんたの教え方がよほど上手かったんじゃありまへんのんかぁ〜・・K)いやぁ・・先生方のオンガクをまともに鳴らしただけのことでんがな・・W)そんでも・・天上から見聴きしてますが・・ほかんとこではまともに鳴ったためしがおまへんのや・・B)いやぁ・・ホンマ!・・今日のはよろしおましたでぇ〜・・W)そういえば・・下界でアンタはん・・どこいってましたんや?・・K)いやぁ久しぶりにワシも振りとうなりましてなぁ・・ちょっとアレの中で一緒におりましてんがな・・・ジェシーは相変わらずダイエットもせんと・・ようがんばってましたわ・・真近で見ると圧倒されまんなぁ・・・てな会話があったかどうかは定かではないが、世界中でただ一人「オザワ」でなければこの日の「響き」は生まれなかった。「カラヤンの愛弟子」として・・感謝を忘れなかったことが果実として結実したのだ。 |
|
|
|
| Disc
No. 086 |
Title
No. CDR-YSHD-063-00 |
| New
Japan Philharmonic - Takashi Asahina |
 |
新日本フィルハーモニー交響楽団
|
CDR-YSHD-063-00
|
朝比奈 隆
|
1997.12.05
|
:
|
墨田トリフォニーホール
|
ベートーヴェン
|
BS/VHS
|
交響曲第9番「合唱付」
|
1998.07.10
|
:
|
79'21
|
: |
★★★★☆ |
|
| 新日本フィルハーモニー交響楽団 特別演奏会 朝比奈 隆指揮 「卒寿」の第九 |
◆1908年という同じ年に誕生したカラヤン先生よりも、結果的には一回りも長生きされて・・ご自身の演奏芸術を晩年に見事なまでに昇華された朝比奈先生のご活躍は、もの凄い量の遺産ともなって録音に残ることにもなったのだが、カルロスほどではないにせよ・・そのレパートリーはほぼ限定されて、一極集中型として繰り返しの中で「進化」を期待されてのことだったようだ。ベートーヴェンの交響曲の全集版CDが山のように積みあがっても、カラヤンのような精巧なセッション録音の積み重ねとは違って、手っ取り早くライブ録音で録り集めた結果としてのCDなのだから・・当然至極に色々と粗削り(それがたまらなくいい!のだが・・)の部分も耳に衝いたりして・・次の演奏の機会にはまた新たな気持ちで「最高」を目指して・・などと思いを馳せられたのではないかとヤボな想像さえしてしまうのだ。録音技術の進化を契機として録り直しをしたカラヤンとは違って、朝比奈先生の場合は演奏上の進化を期待しての録り直しだったのだ。この意味は実に重大で・・半世紀にも渡って音楽監督を務めた手兵が「クリーブランドの奇跡」や「レニングラードの凄み」を持ち得なかったことだ。浪花節が染み付いてしまったのかどうか・・人情味溢れるお人柄は、セルやムラヴィンスキーのような専制君主に徹するような素質?は全く無かったのだ。身分安泰の手兵の楽員は、音楽監督に甘えきって・・多少の胡坐もかいてたんじゃないかと思ったりもするような録音さえあるほどだ。出来不出来の波の中で、朝比奈先生のご苦労もさぞや大変だったのだろうとお察しもするのだが、そんな中でも新日本フィルは朝比奈先生との関わりがある東京でのもう一つの手兵として愛されていたと聞く。オザワさんを介して世界を見つめることのできる日本唯一のオーケストラが本拠となるホールを持った時、朝比奈先生は90歳というけじめの御歳(卒寿・・というらしい)を迎えられていた。
◆この演奏会は、そういった時期に・・チクルスの一環でもなく・・年末恒例としてでもなく・・新ホール落成記念としてでもなく・・ただ朝比奈先生の御歳を祝して行われた単独の特別公演だったようだ。画面に遺った朝比奈先生のお姿は元気矍鑠としてとても御歳には見えず、武骨な指揮は相変わらずの様相だった。但し、オーケストラ楽員や聴衆からの畏敬の眼差しで覆われた新ホールのステージは、やはりなにか異様な雰囲気も漂って、張裂けんばかりの緊張感を伴って曲頭のトレモロが湧き出たのだが、不思議なことに一端テュッティーとなって爆裂した後には何かホッとした心地よさを感じたりして・・御歳を忘れて聴き入ってしまった。オザワさんの指揮した長野の「第九」が新型最高級車の悠々の高性能ぶりとしたなら、今回の演奏会は紛れも無く・・キッチリと完全整備されたクラシックカーで最高速にチャレンジしている時の爽快感に似てなくもない。ストコフスキーの記録には達しなかったが、ニューミレニアムに向かってさらに今一度のベートーヴェン・チクルスを行い・・正に七転八起を地でいったようなギネス級全集録音の完結編として、担当レコード会社の勇気ある無編集マスタリングでリリースされたのだ。編集された「完璧さ」などは・・よくよく考えたら「嘘」の塊のようなことにもなって・・だからこそ・・ありのままの最晩年の朝比奈先生と手兵の演奏が遺ったことは意義深い。ワシはねぇ・・ドイツの楽団の凄さもようわかっとるんだが・・それを子供らに真似させて強要しようとは思ってはおらんのです・・・ただねぇ・・楽団っちゅうのは・・ベートーヴェンが弾けんと何も弾けんのです・・ことあるたびにベートーヴェンをやるっちゅうことは・・負けんようになるためには勉強せんとあかんのです・・新しい譜面を渡すのも・・真っ白な気持ちで見つめなおせ!と言っておるつもりなんですがねぇ。。・・なかなか思うようにはいきまへんなぁ・・・ハッハッハ・・てなボヤキ話が聞こえてくるようなこんような・・・(?) 晋友会合唱団、澤田恵美(ソプラノ)、竹本節子(アルト)、若本明志(テノール)、多田羅迪夫(バリトン)の好演もあってか、この日の演奏には随分とご満足されたご様子でもあった。全てのリピートを忠実に再現された結果、演奏時間は以下のようになった。第1楽章
18'36 第2楽章 17'01 第3楽章 16'20 第4楽章 27'24 ・・・もちろんライブなので楽章間のインターヴァルや演奏終了後の拍手も含んだCD-Rのトラックとしての収録時間なのだが、第2楽章の割合がフツウの第九?と比べて異常に長いことが分かる。ここだけは、先生には恐縮ながら・・もうちょっと早く切り上げてよ・・・と小さな声で呟きたくなるような時間感覚に襲われて・・カラヤンがリピートを削った理由が身に染みて?よく分かった。これも本妻とか愛人とかの関係ではなく、ひょっとしたら・・子供や孫への教育上の配慮(何回も繰り返し弾かねば勉強にならん!)からのものだったのかもしれない。。 |
|
|
|
| Disc
No. 087 |
Title
No. CDR-YSHD-064-00 |
| Berliner
Philharmoniker - Nikolaus Harnoncourt |
 |
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
|
CDR-YSHD-064-00
|
ニコラウス・アーノンクール
|
2002.10.24
|
J.S.バッハ
|
フィルハーモニー
|
管弦楽組曲第1番 BWV1066
|
FM/VHS
|
ヴァイオリン協奏曲第1番 BWV1041
|
2003.01.05
|
Vn と Ob のための協奏曲 BWV1060a
|
79'10
|
管弦楽組曲第3番 BWV1068 |
★★★☆☆ |
|
| ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会 ニコラウス・アーノンクール指揮 |
◆一口に「クラシック音楽が好きでーーす!」とのたまっても・・そのベクトルが向いた先は色々あって話しが噛み合わない場合がままある。音楽サークルなどでは、審査なしで誰でも入れます(どっかの保険会社の宣伝文句のようでもある)・・楽しくオンガクについて語り合おうよ・・などと理想を掲げてみても、時間の経過と共に楽しく語り合えない雰囲気をグッと耐え忍んで・・全く興味のない話題を然も有りげに相槌を打ったりしなければならないのだ。サークルとは「輪」のことなので、中心には求心的なオンガクの話題がなければ成り立たない。ベクトルの太さや長さは棚に上げても、少なくともその方向だけは輪を形成する全員が中心に向かっていなければならないのだが、過去・・音楽サークルに在籍させていただき、さらには自らも主宰した中で振り返ってみると、十人十色百人百色のオンガクの嗜好は、丁度アナログ時計の文字盤のように各々方(おのおのがた・・時代劇の見すぎか?)固有の時刻をお持ちで、オンガクという360度の輪に向かって中心たるご自身から何本かの針が其々の太さや長さで伸びているようなものだった。何本かの針の一本でも方向が一致した時に初めてコミュニケーションが成り立つことになるのだが、相手の熱意が強すぎると今度はそれが嫌味になるという・・ニンゲンとして誠に情けないほどの気持ちの有様に愕然ともなるのだ。。オンガクを楽しむよりも・・「人間学」の修練の場とでも言ったほうがいいような・・どろどろの煩悩が渦巻く中に・・バッハとモーツァルトとジャズのお好きな御仁が入ってこられた。・・・そういえば、若かりし頃・・「ある愛の詩 Love
Story」・・という映画に随分とハマって(ビデオの無い時代・・当然映画館へ)、フランシス・レイの作った感動極まる主題曲(若くしてガンで亡くなった悲劇のヒロインを偲んで・・あり余る余韻を未だに背負ってるほど)もさることながら・・そのヒロインの愛した音楽がバッハとモーツァルトと・・確かジャズだったような・・特にバッハとモーツァルトの曲はBGMとしてヒロインのバックに盛んに流れたことを思い出した。恥ずかしながら、初めて目から鼻水を垂らした映画でもあった。。(それほどのウブだった!?・・笑・・)
◆後日の例会でプランナーを任されたそのお方は、やはり・・バッハだけでCDコンサートのプログラムを組まれた。それはバッハと言えども大変に多彩な組み合わせをもって、ご自身の「思い」が込められた味のあるひと時となったのだが、バッハについては・・カラヤン先生の音盤しか持っていない自分自身の「引き出し」からは、そのお方の「引き出し」に対抗?できるだけの話のネタなど皆無だったのだ。。ベートーヴェンを核とする嗜好性は、バッハとモーツァルトを核とする嗜好性とは全く相反する要素多々あって、同じ「古典」の中でも話が噛み合わない。。かくなる上は、細く短くともベクトルの針を増設せねば・・とほんの少しのポジティブな気持ちでバッハへのアンテナを張っていた。そんな時にFMの番組表で見つけたプログラムが「これ」だったのだ。バッハよりも、「ベルリン・フィル」が先に気持ちを動かしたのかもしれないものの、聴いてみると結構楽しめる。多分編成規模は極小で、全楽員の3割程度しか出演していないことにもなるのだが、これはこれで曲想にマッチしたサウンドバランスだ。シンフォニーオーケストラの確固たるレパートリーでありながらモーツァルトだけのコンサートとなると・・どうにもこうにも気持ちが燃えないのだが、本来のレパートリーではないバッハだけのプログラムというのは・・線香花火のような煌きにも似て・・バロック時代へと遡るオンガクの扉が一瞬チラリと開いた時に垣間見える光景が瞼の裏に焼き付いたりして・・なぜかノスタルジック?な雰囲気の中でドップリと寛いでいる自分自身を見つけたりする。そのお方と出会わなかったらエアチェックを見送ったかもしれない音源・・・音楽サークルのCDコンサートのプログラムとしてブラームスの第1交響曲が演奏された例会から暫らく経った後日、そのお方が「ブラ1」を初めて聴かれた(多分まともに・・)ことを知った。我々の世界(という言い方も極めて独善的?)では定番中の定番でもある「ブラ1」を・・・バッハとモーツァルトのCDだけは棚一杯にありながら・・・何年もの間・・十何年間・・いやそれ以上の年月に渡って耳にされなかった!。・・・逆に言えば、自分自身も同じようなパターンがある。。得手不得手・・周知の詳知と不詳知への無頓着などなど色々と勉強させてもらった一齣でもあった。音楽へのポジティブな気持ちが薄まったときにはこのCD-Rを聴いてリフレッシュしている。。 |
|
|
|
| Disc
No. 088 |
Title
No. CDR-YSHD-065A/B-00 |
| Disc
No. 089 |
Berliner
Philharmoniker - Christian Thielemann |
 |
 |
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
|
CDR-YSHD-065A/B-00
|
クリスティアン・ティーレマン
|
2002.12.05
|
シュテファン・ドーア (Hr)
|
フィルハーモニー
|
シュトラウス
|
FM/VHS
|
交響的幻想曲「影のない女」
|
2003.01.05
|
ホルン協奏曲第2番|「死と変容」
|
42'29|42'38
|
「ティル・オイレンシュピーゲル」 |
★★★★☆ |
|
| ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会 クリスティアン・ティーレマン指揮 ティーレマン定期デビュー! |
◆アーノンクールのバッハだけの定期演奏会とは対極的な・・今度はベルリン・フィルの面子がかかった大編成を要するシュトラウスだけのプログラムなのだが、あのティーレマンが天下のベルリン・フィルハーモニー定期演奏会にデビューするプログラムとして・・相応しいものなのかどうかという疑問と共に、やはり・・エアチェックなど見送ろうとする気持ちが先ずは優先した。こういったプログラムの作り方は、「核心」がなければ単なる「イヴェント」に終始してしまう。時の話題性(作曲家の生誕または没後何年とか)や「流れ」のテーマもなく、大曲で締めるという常道からも外れて、ボンクラ指揮者の手にかかれば時間を無駄に過ごすだけ・・何を聴いたのかフォーカスしないまま・・ホールを後にすることとなるのだ。珍しい「影のない女」からの音楽とホルンコンツェルトはまだよしとしても、「死と変容」の後にフザケた「ティル」はないだろう・・・と思ったことがエアチェックを見送ろうかと思った大いなる根拠でもあったのだ。いくら「あの」ティーレマンでも、コンサートの最後で「ティル」となれば・・何か「肩透かし」に会うような予感が漂った。結果的に看板に絆されて回したテープだが、翌日モニターしたら「とんでもない!」音の饗宴を耳にしたのだ。近年のベルリン・フィルハーモニーからはなかなか聴くことのできなかった分厚い響きが蘇って、千差万別の「色」の中で水を得た魚のように活きていたのだ。ベルリン・フィルの全ての「音」を引き出すために、性格のそれぞれ異なる4曲が必要だった・・ということのようだ。。いっそうのこと大得意なシュトラウスの音楽で・・・。
◆「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」という交響詩は、「ドン・ファン」と対になってシュトラウス作品集(音盤での)では必要不可欠の楽曲だ。LPの時代では、「ドン・ファン」で片面が埋まり、「ティル」と「七つのベール」で片面を埋めるのが定番でもあったのだ。なによりも、「ティル」では交響詩の内容からか・・極めて気楽に軽っぽく聴き流す・・という癖が身に染みていて、「ツァラ」や「英雄の生涯」などの中/大型交響詩とは気持ちの持ちよう自体がまるで違っていたのだ。ましておや・・それだからこそ・・音源はたらふく所蔵していても、いざ聴くとなると他の交響詩についつい手が伸びてしまうといったことになって・・音盤の数だけ購入時に聴く限りの・・おまけ的存在でもあったのだ。ドッシリとした・・哲学的な・・幽玄漂う・・といったテーマこそシュトラウスの世界として固執してきた感じを否めないでいる中では、大曲「ドン・キホーテ」も当初今一つ?の曲想だった。そんなこんなのことから・・「ティル・オイレンシュピーゲル」でコンサートを締め括る・・などという発想自体、逆立ちしても出て来なかったのだ。ところが・・どうだ!・・・対抗弦楽配置から醸し出されるティーレマンのシュトラウス・サウンドは、従前のベルリン・フィルのそれとでは全く違う響きを呈して、特に第2ヴァイオリン(ステージ上手〜指揮者の右側)の弾く音譜がクリアに浮かび上がり、こんな対旋律を弾いてたのか!とビックリたまげる部分もあったりして、安定して力強いホルンや締りのいい打楽器の打音を含めてテュッティーの迫力はかなり爆裂気味に響いたりして・・これは正にメイン・プログラムだぁ!!と唸ってしまった。最後の最後・・物語を締め括るシュトラウスのユーモア溢れる回想を伴った付け足し?のフレーズで、ティーレマン自身も・・・・と・・まぁ・・こんなことでした・・・としてシュトラウス・プログラムを括ったような感じもして、デビューコンサートでのほんの少しのはにかんだ気持ちをシュトラウスのユーモアに引っ掛けてフィルハーモニーの聴衆へアピールしたんじゃないかと思ったりしている。。 |
|
|
|
| Disc
No. 090 |
Title
No. CDR-YSHD-066A/B-00 |
| Disc
No. 091 |
Wiener
Radio-Symphonie-Orchester - Dennis Russell Davis |
 |
 |
ウィーン放送交響楽団
|
CDR-YSHD-066A/B-00
|
デニス・ラッセル・ディヴィス
|
1999.08.29
|
:
|
ザルツブルグ祝祭大劇場
|
フィリップ・グラス
|
FM/VHS
|
交響曲第5番「合唱付」
|
1999.12.12
|
第1〜9楽章|第10〜12楽章
|
73'29|29'24
|
死者のミサ、中有と化身 |
★★☆☆☆ |
|
| ザルツブルグ音楽祭1999 - 音楽祭委嘱作品世界初演 - ピース・シンフォニー:東京フィルのご厚意の賜物! |
◆「千年紀の変わり目に音楽による平和のメッセージを全世界の人々に・・」という壮大なテーマの下、アメリカ生まれの奇才フィリップ・グラスが得意のミニマルの手法(⇒20世紀音楽の一手法。作曲に使う音素材を極度に切り詰め、限られた和声のなかで、パターン化された音型やリズム型を反復して構成する音楽。-ヤマハ音楽用語辞典より)を取り入れて、全12楽章・総演奏時間1時間40分にも及ぶ超大作をザルツブルグ音楽祭からの委嘱で作り上げた。構成は全く違うが、児童合唱、混声合唱、5人の歌手と大編成の管弦楽を要する規模では・・マーラーの第3交響曲並みの史上最も大きな楽曲の一つでもある。こういったテーマの下に作られる時には、大抵が宗教チックな台本登場となるのだが、ご多分に漏れず・・この作品でも・・国境を超えた宗教観が「日本書紀」の神話の世界にまで及んでいる。「宇宙」そして「生きとし生けるもの」のルーツを遡り、創造・破壊・再生の繰り返しから人類の破滅までを「懐古」し、破滅後の「浄化」に宗教チックな望みを託すのだ。ニューミレニアムといっても・・コンピューター問題では相当騒がれたが・・2000年の新しいカレンダーをぶら下げても何も変わらなかった。。そんなことが判りきっていても、人間というのは何らかの形でケジメをつけたがるものなのだ。そういえば・・昔は「2000」というのは、国産高級車の証でもあった。となりのクルマが小さく見えます・・なんていう大衆車は1100で、1500とか1600とかいうクルマが「そこそこの・・」といったイメージで走っていた。軽自動車は360で、今のと比べると「おもちゃ」同然の造りだった。狭い・・走らない・・我慢・・・といったクルマにはあってはならないテーマが全て揃って、高速道路で真っ白な排煙(2サイクルのエンジンはオイルも一緒に燃やすので)を撒き散らして追い抜いていった先でボンネットから白煙を出して止まっているクルマの横を通り過ぎた時なんぞは滑稽極まる瞬間でもあった。。(当時の運転手さん・・お疲れさん!) 全く関係の無いハナシとなり・・さて・・なんだったっけ?
◆「レクイエム、バルドゥとニルマナカヤ」との副題がついてはいるが・・レクイエムは判っても後はなんのことだか判るわけがない。なんとか番組の解説にあった各楽章に付いたテーマを書き留めることにした。第1楽章から順に「創造以前」「宇宙の創造〜宇宙・星・天体」「生物の創造〜知覚される存在」「人類の誕生〜人間」「愛と悦び」「悪と無知」「「苦難・苦悩」「慈悲」「死」・・とここまでの9楽章はレクイエムとして作曲されたらしい。。さらに、第10楽章から順に「審判と黙示〜バルドゥ」「天国」「功徳の聖別〜奉献」と続くのだが・・ニーチェもビックリたまげる量のテーマの数々。。そして、これが全編歌詞を伴ってソリストやコーラスで歌われるのだから・・全くのお手上げ状態に陥ってしまった。言葉の意味も分かずに・・経典としての概略の意だけのみこんだつもりになって大いに感動してしまうミサ曲やフツウのレクイエムとは全く違って、正にこれはオラトリオの世界だ。シンフォニーなどと呼ぶものだから・・管弦楽の部分だけでも聴けば・・なんとなくでもわかるハズ・・との期待は見事裏切られて、しかしながら・・ザルツブルグ音楽祭が委嘱した世紀の作品の録音テープをお蔵入りさせるのも惜しい気持ちになっていったのだ。今後の作品は管弦楽にオルガンを加えて「音」だけで表現する超感動巨編を作ってくださーーい。地球には、・・・
英語でさえ理解できない人類が・・まだまだ・・ウヨウヨと・・いてまんねん!!
◆ちょうどそんな時に、東京フィルハーモニー交響楽団がザルツブルグ音楽祭の協力の下、翌年1月に日本で初演するという・・とんでもない企画(朝日新聞社の主催で新聞創刊120周年記念として催された)があることを知って、東京渋谷のオーチャードホールまで行こうかと予定までしたのだが、都合で身動きとれずに聴き逃すことになってしまった。。当日配られるハズのプログラム冊子に「対訳」が載っているという単純な動機からだったのだ。確か・・当時はライブCDの発売などの計画は無く、例えどっかのマイナーレーベルがORFから権利を買ってCD化できたとしても、輸入盤ではブックレットもただのお飾りとなって、膨大な量の歌詞の翻訳(電子辞書と首っ引き)ができたとしても(できっこない!)・・直訳の日本語など誤解を招く基ともなりかねないことにもなる。。肝心の東京フィルもライブ盤を作る意思などないみたいで、・・CDブックレットでの対訳確保の望みも消え果た。。そうだ・・演奏会は100%満席になるわけがないし・・例え満席でも当日来なかったお方もいるハズ・・・プログラム冊子は余ってるハズだぁ!・・などと勝手な思い込みで「斯く斯く云々の事情によって対訳を・・・何卒ご検討のほどを・・」・・とのメールを事務局に送ったところ、ご丁重にも「あるから送るよ!」と嬉しい限りのご返信をいただけたのだ。数日後に郵送された冊子には、バッチリと対訳がウンザリするほどの量で載っており、・・未だに対訳の意味するところと音楽の流れが一致把握できていない。。単純単調なメロディーラインとリズムの繰り返しは凡人としての自分の耳にも馴染み易く、時間を忘れて聴き入ってしまうのだが、対訳を追って真面目に聴きだすと・・どういうわけが睡魔に襲われて、眠りこけてしまうのだ。。対訳があるという安心感?からのことじゃないかと思ってもいるのだが、あまりにも多様なテーマが絡み合った歌詞は、思考回路をパンクさせてフリーズ状態にするのではないかとも思ったりもする。。ドーン・アップショウ(ソプラノ)、ロレイン・ハント(メゾソプラノ)、ミヒャエル・シャーデ(テノール)、エリック・オーウェンズ(バリトン)、フランツ・ヨーゼフ・ゼーリッヒ(バス)というソリスト陣、ハンガリー放送児童合唱団、オルフェオン・ドノスティアッラ・デ・サン・セバスティアンという長い名称の混声合唱団の熱演も目下睡魔の前に立往生中といった恥ずかしい限りの現状でもある。それにしても、東京フィルハーモニー交響楽団事務局のご厚意・・温かい人情には本当に感激した。この場を借りてでも感謝御礼を申し上げねばならない。。このプログラム冊子が無ければ・・CD-Rにするだけの勇気?は生まれなかったのだ。。ホンマです。 |
|
|
|
| Disc
No. 092 |
Title
No. CDR-YSHD-067A/B-00 |
| Disc
No. 093 |
Orchestre
National de France - Victoria Postnikova - Gennady Rozhdestvensky |
 |
| |