エアチェック☆レビュー(8) SINFONAIR(シンフォネア)
このページは Internet Explorer プラウザ画面の 表示(V) → 文字のサイズ(X) → (M) でレイアウトデザインをしております。
文字サイズを 大(L) 又は 最大(G) とした場合には段落等大幅に乱れますのでご了承ください。
Aircheck Review ⇒ 123456789 | 10 1112HOME
Disc No. 275  Title No. CDR--176-02 GA4-10
 Chicago Symphony Orchestra - Carlos Kleiber
176(GA4-10)
シカゴ交響楽団
CDR-176-02 GA4-10
カルロス・クライバー
1978.10.12
:
シカゴ・オーケストラホール
ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」序曲
FM-Tokyo/GA4-10
シューベルト:交響曲第3番
1979.04.07
ベートーヴェン:交響曲第5番
59'43
:
★★★☆☆
Disc No. 276  Title No. CDR--177-02 GA4-10
 Bayerisches Staatsorchester - Japan Tour 1986 Tokyo - Carlos Kleiber
177(GA4-10)
バイエルン国立管弦楽団
CDR-177-02 GA4-10
カルロス・クライバー
1986.05.19
:
人見記念講堂 東京
ベートーヴェン:交響曲第4番
NHK-FM/GA4-10
ベートーヴェン:交響曲第7番
1986.07.09
Joh.シュトラウス:喜歌劇「こうもり」序曲
74'26
Joh.シュトラウス:ポルカ「雷鳴と電光」
★★★★★
Disc No. 277  Title No. CDR--178-02 GA4-10
 Wiener Philharmoniker - Carlos Kleiber
178(GA4-10)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
CDR-178-02 GA4-10
カルロス・クライバー
1988.03.20
:
ウィーン楽友協会大ホール
モーツァルト:交響曲第36番「リンツ」
NHK-FM/GA4-10
ブラームス:交響曲第2番
1989.01.07
:
68'34
:
★★★★☆
Disc No. 278
 Title No. CDR--179-02 GA4-10
  Wiener Philharmoniker - Carlos Kleiber
179(GA4-10)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
CDR-179-02 GA4-10
カルロス・クライバー
1993.05.16
:
ウィーン楽友協会大ホール
モーツァルト:交響曲第33番
NHK-FM/GA4-10
シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」
1993.08.15
:
59'21
:
★★★★★
カルロス・クライバー 放送音源ライブ録音集(Great Artists as private lavel GA4-10 by 4CD-R)
◆カルロス・クライバーは「エーリッヒの息子」としてのイメージが絶えず被さり、ご本人の年齢を錯誤する大いなる原因だった。演奏活動は時の流れの中ではなく、点と点が線につながらない突発的な行為となり、臨時便のように「存在の中の不存在」的要素が満ちていた。衝撃的なウィーン・フィルとのDGへの一連のセッション録音は、オンガクと一緒にカルロスの年齢まで封印したかの様相で「現役の音盤」として店頭に並んでいたのだ。そんなカルロス・クライバーが亡くなった・・との訃報は、実年齢を確認するまで「まさか」の出来事だった。錯誤していたカルロスさんの年齢は、まだまだ若い・・と云えども既に男子の平均寿命に達していたのだ。このショックは「帝王死ス」の時とは全く違ったエネルギーでジワリジワリと襲ってきた。正規音源の極端に少ないカルロスさんに「海賊盤」なる音源の存在があることは知っていた。・・知ってはいたが手を出さなかった。チェリビダッケの「隠し撮り音源」からの劣悪極まる音に酷い目に遭わされた(結構な値段・・何よりも「期待」を裏切られたことのぶつけ先が無いこと)ことからの先入観もあったのだ。しかしながら、エアチェックの私家製裏青盤の「音」の世界に自信を持つに到った状況下、「放送音源」との謳い文句には心が揺れた。少なくとも「FMグレード」のサウンドで未知のカルロスさんが聴けるとなれば、その音源を購入するだけの価値はある。何らかの事情で放送を聴き逃し録り損ねたことの穴埋めもできる。・・「ダメもと」としては結構な投資金額だが、ことの重大さに比べればリスク覚悟の投資とも成り得る。・・ 「ええぃ!ままョ!」と発注送信ボタンをクリックして・・・そして・・数週間が経ってから裏青海賊盤は手元に送られてきた。
◆どんな御仁がお作りになったのかは全くわからないが、極めて貧相な4枚ケースのジャケットデザイン(自作を完全に棚に上げて ^^;)は、いかにも俗に言う「海賊盤」としての威光?を放ち、香りたつもの何も無しという味気ないものだった。各CDのレーベル面の印刷こそインクジェットでしっかりとおこなわれて、最小限の面目を保ってはいたが・・勿論ブックレットなどあるはずもなく・・目的はレーザーで焼きこんだ「音」そのものなのだ。・・再生してみて驚嘆した。(あまり大きな声では云えないが・・・)ヘタなレーベルのライブ録音盤よりも格段に「いい」音がするのだ。我が耳を疑うほどの音調でDSPに音がのった。一番古い1978年のシカゴでの録音でさえ、ダイナミクスの補正は全く必要が無かったのだ。勿論スペアナチックな僅かな欠陥はないではないが、ステレオ録音としての品位は限界以上で保っていた。最新の「英雄の生涯」などは、ブラインドで市販CDとして聴かせたとしても誰も疑わないだろう。「こうもり」序曲が蘇った東京公演も、初対面の「ブラ2」も・・全てが納得のいく結果となり、バックアップの目的で同時購入した同じ音源の台湾製プレスCDによるイタリアレーベルの海賊盤(イタリアの海賊盤には「ヴァレンシア」の隠し録りを見抜けず・・唯一これ1枚だけは見事に騙された)と共に宝物と化したのだ。余りにも貧相なオリジナルパッケージを捨てて、4枚のCD-Rを自作ジャケットカード(ケース裏表及び背表紙活字入れ)で飾って新調した単独ケースに収納し、エアチェック・ライブサウンド・コレクションの一角に「購入音源」として迎え入れることにした。・・・といったことで「音」のことだけで終始した訳だが、肝心の演奏は?といえば・・カルロスさん満身の好演としか言いようのないレヴェルだ。第X楽章の練習番号XからXまでの何とかがどうだこうだ・・といったアカデミックかつミクロ的な聴き方は・・ライブ録音には全く似合わない。終わり良ければ全て良し!・・といった大局的感動こそリスニングの醍醐味なのだ。正に・・凡人冥利に尽きる?といった聴き方でもあるが・・^^;
◆さて、こういったマニアックな「海賊盤」のアングラマーケットだが、久しぶりに某通信販売店のサイトを訪ねてみると・・あるはあるは・・1CDRで壱千五百円程度に値下げされたデッドストック盤がウジャウジャと載っていた。お上?を意識してかどうかはわからないものの、かつてのレーベルの名称がほとんど見当たらずに新しい名称に変わっている。。本サイト掲載の自作CDRと同じ音源からの「商品」がなんと2枚組みで金五千円也だ。ここに載せたカルロスさんの優秀音盤ならともかくも・・「音揺れ」「音飛び」「劣悪音質」「パルスノイズ」などで一通り聴く(聞く?)のにも大いなる我慢を要するようなシロモノまで同じ値段を付けて売りさばく行為自体が気に入らない。UGM販売店の店主たる者は・・少なくとも鑑定選別を経て・・こんなモコモコゆらゆらシーシーシャーシャーしたような音では売りもんになりまへんでぇ!・・くらいのことを言って仕入拒否をしてこそUGMマスター(?)と呼ばれる価値が生じるのだ。>>音質はこもりがちだが一般鑑賞に不足なし<<・・イコライザーで逆アーチ補正くらいしなはれ・・>>ヒスノイズが続くが音自体はしっかりしている<<・・ドルビーBさえ付いていないラジカセALC録音でっか?・・>>音質は多少の揺れがあるがそこそこ良好<<・・音揺れが「多少」でもあれば音源価値などゼロでっせ!・・・ とまぁ・・こんな具合に文句をつけたらきりがない。。色々な権利関係で問題のあるマーケットなれど、法律が100%道理があるのかといえばそうでもないのだ。そもそもニンゲンの創る決め事など完璧であるはずなど有り得ないんじゃないか。。公序良俗とは・・勿論法的根拠の上に成り立つものだが、然るべきフィロソフィーとポリシーあっての良心的非合法?は・・ひょっとしたら欠陥法規改正への種火になるんじゃないかとさえ思うのだ。・・・それにしても・・ネット社会には「悪徳」が蠢きすぎる。。
Disc No. 279  Title No. CDR-YSHD-180A/B-00
Disc No. 280  Wiener Philharmoniker - Valery Gergiev
180A 180B
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
CDR-YSHD-180A/B-00
ヴァレリー・ゲルギエフ
2000.04.30
:
ウィーン楽友協会大ホール
ムソルグスキー
FM/VHS
組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
2001.01.04
ストラヴィンスキー
33'46|45'24
バレエ音楽「火の鳥」
★★★★★ OIDT
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会 ヴァレリー・ゲルギエフ指揮
◆1995年11月にゲルギエフさんが手兵キーロフ管弦楽団を率いて東京芸術劇場コンサートホールで「火の鳥」を演奏した時の前半のプログラムは「春の祭典」だった。このウィーン・フィル定期演奏会での前半には「展覧会の絵」。。ゲルギエフさんのお好きなプログラムビルディングの傾向は、天下のウィーン・フィルへの客演でも変わらなかったようだ。メインプログラムと成り得る楽曲を前後半に並べるという涎の垂れるような構成は、前半で「未完成」とか「モーツァルト」なんかをチョロチョロ?・・と聴かされて休憩となるような演奏会から比べれば、「展覧会の絵」を聴いた後には満腹大満足となって・・イタリアのコースメニューでのスパゲティーのように・・美味い美味い!といい気になって完食した後に出てくるメインディッシュがお腹に入らないという不幸をも連想させるほどだ。料亭の懐石コースとは次元の違うもの凄いボリュームの諸外国のコースメニューは・・日本人には胃薬必至となる難物だ。その「昔」・・・男たる者は先ず以ってよく食わねばならない・・などと妖精の親父殿に云われたことがあった。。よく働く男はよく食らう。従って・・よく食う男はよく働く?・・という理屈のようだった。痩せの大食いと呼ばれる御仁も世には数多居るようだが、生活習慣病対策で完璧なカロリーコントロールを受けている本来大食いのご亭主には言葉もない。。食わねばならぬ・・と意地張って食らった結果には・・わたしステーキあなたはお刺身少しだけね^^・・などと一家の食卓の上に天国と地獄が同居することにもなる。働き盛りに何かあっては大変でしょ!・・てな優しくも思いやりたっぷりに聞こえるハズのその昔妖精だった奥方のお言葉の裏には、身の毛もよだつような定年となる日までの亭主温存大戦略が秘められているのだ。高額生命保険への毎月の支払いが絶望的となった昨今では・・「てごろでガッチリなんとかかんとか」みたいな入院保険に加入する人たちが激増しているという。。テレビCMの登場率からいえばダントツ抜きん出て多いこの種の保険だが、宣伝費など天にも届く膨大な金額だろう。。結構割高な感じが否めないのも宣伝費が掛金にしっかりと上乗せされているのかもしれない。そういえば・・10年前にこの手の保険に加入する時、どっちの会社と契約しようかと・・10円玉で決めたことがあった。表が出たらA社・・裏が出たらB社・・てな具合で、結局裏目が出てB社と契約した経緯を思い出した。今から思えば・・結果的にはB社で良かったということで、十円玉の裏面にある平等院には感謝せねばなるまい。
◆宇治の平等院鳳凰堂の屋根に鎮座する一対の鳳凰はレプリカだ。昔から鳳凰=フェニックス(不死鳥)と思い込んでいたが、どうもそうじゃないらしい。なにやら・・麒麟と同じく中国の霊獣の一つで、麒麟の「麒」が雄で「麟」が雌であるのと同じく、「鳳」は雄で「凰」が雌であるということも恥ずかしながら初めて知った。古く漢の時代には、「火精」とも呼ばれたというから・・「火の鳥」と云っても差し支えないようなのだが、我が身を火に投じて・・再び生き返るというシナリオが無いせいか・・「不死鳥」とは呼べないらしい。もっともその容姿は、前は麟・・後は鹿・・頸は蛇・・背は亀・・頷は燕・・嘴は鶏だとされることから・・・とても飛べたもんじゃないようだ。>良政<行われし時にのみ現れるとかで・・確かに鳳凰堂においては・・「大気汚染による錆害を防ぐ意味から本物は取り外されて宝物館に保管され、新たに制作されたレプリカが大棟に載せられている」とした説明書きから見ても・・今の日本の現状を象徴しているのだ・・と妙なところで納得したりもするのだ。。一方の「火の鳥」は、マンガを芸術作品にまで昇華させた故手塚治虫氏のライフワーク(未完に終った)として超有名でもあるのだが、炎を食らって永遠に生きるというテーマを変幻自在に綴ったストーリーは・・時代が35世紀にも及ぶ途轍もない壮大な宇宙観に基づいたニンゲンドラマだ。おそらく・・「火の鳥」をテーマとしたストーリーでは世界一のスケールじゃないかと思うのだが、ストラヴィンスキーが音楽に描いた「火の鳥」は・・50分ほどの時間の中にフェニックスのエッセンスが凝縮され・・そのエモーションを気持ちの中で解凍すれば宇宙の果てまで想いを馳せられるような仕掛けが組まれている。即ち・・剣術でいう「残心」。鉄人がいう「後味」。そして・・音楽が訴える爆裂のエネルギーだ。その爆裂クレッシェンドが自動的に解凍エネルギーとなる訳で・・へなちょこりん?なオーケストラのナヨッチイ音量では気持ちが大気圏外に出るのにも儘ならない。「カスチェイ一党の凶悪な踊り」で牙を剥けばそれでよし?とする演奏や録音も多々あるが、「火の鳥」で最も重要な音はエンディングに至るクレッシェンドなのだ。そして・・その頂点では・・音響飽和も覚悟の上で満身火事場の馬鹿力的な爆裂音量でリスナーの聴覚を麻痺させるほどでなければならない。。鼓膜がビリついて・・一瞬無音となって耳鳴りを覚え・・残響の中に残像で大音響が蘇る・・という荒業だけが「火の鳥」の核心を突くエンディングとなる。不死鳥「火の鳥」の飛び去る時の衝撃波は・・コンコルドの比ではないのだ。
◆当日、ウィーン楽友協会ゴールデンザールに集まった聴衆は・・前半のエンディングで既に全身痺れきっていたハズだ。オーケストラが無制限に音を解放できる楽曲の十指に入る「展覧会の絵」なのだが、オーケストラの・・特に管楽器の楽員にとっては・・「ボレロ」同様に胃がチクチクする楽曲でもある。だからこそ・・!・・フィナーレ「キエフの大門」ではそのストレスからも開放されて音の出方は半端じゃない。ここを「上品に?」などと本番で音を抑えさせるような指示を出す指揮者なら・・プローベの時点で袋叩きに合うこと必定となる。残念ながら・・実際の演奏会ではどれ程の音で響き渡ったのかは録音である以上確信が持てないのだが、とりあえずORFの収録は「然も有りげ!」の範疇に見事に入っていたことがうれしかった。両曲共に、FMのキャパシティには絶対にリニアに収まりきらないダイナミクスを持つ。OIDTで補正をするものの・・やはり「生」には絶対に敵わないのだ。しかしながら・・オーケストラがウィーン・フィルで、しかもゴールデンザールでの演奏ともなればハナシは別だ。ORFは、ここでウィーン・フィルが出し得る最大音圧を承知済として、ホールに響く音響バランスを実に巧妙にアレンジしている。耳を劈くような激烈な音は出していないのに・・結果的にはそういった感じで耳に届く音圧感とでもいうべきか。。残響の中で感じる「核心の残像」が本当に良く「然も有りげ」に聴こえるから不思議だ。「展覧会の絵」は前半だったせいもあってか・・ほんの少しセーブ気味に聴こえたような気がするものの・・冒頭のトランペットなどはウィーン・フィルとしては珍しくも硬い音だ。最初から打楽器を強打せずに・・フィナーレまでその威力を温存するところなんぞは相対的なダイナミクスの設計手法なのだろう。。ゲルギエフさんがノーテンキに振っていない何よりの証拠でもある。ところが・・「火の鳥」ではうって変わってウィーン・フィルが本気になった。キーロフのオハコは即ウィーンのオハコでもあるのだ。ゲルギエフの殴りこみを受けてたったウィーン・フィルは、「ゲルギエフのオーケストラ」へ牙を剥いて対抗したのだ。キーロフでは見られない「金色の光の粉」に包まれた「火の鳥」は、ゲルギエフの燃え滾る情熱の陽炎に煽られて天空へと飛び去った。ホールに撒き散らされた煌きの残光は、音の粒子に同化して幻影となり、ゴールデンザールに浮かび上がった。ウィーン・フィルの「稀な本気」は・・演奏の中で指揮者をも感動させた。ブラボゥー!・・ウィーン・フィル!・・との唸りにも似たゲルギエフの呟きは、熱狂的な拍手の前に幻聴の如くマイクにのった。ゴールデンザールとウィーン・フィルの音響調和の虜になったゲルギエフは、「フィルハーモニカーの指揮者」の一員となることを快諾した。
Disc No. 281  Title No. CDR-YSHD-181A/B-00
Disc No. 282  Berliner Philharmoniker - Sir Simon Rattle
181A 181B
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
CDR-YSHD-181A/B-00
サー・サイモン・ラットル
2003.11.05
フェリシティ・ロット (S)
フィルハーモニー、ベルリン
シベリウス:交響曲第7番
FM/VHS
リヒャルト・シュトラウス
2004.08.18
歌劇「カプリッチョ」より 最終場面
42'10|51'53
シューベルト:交響曲第8番
★★★★☆ OIDT
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会 サー・サイモン・ラットル指揮
◆シュトラウスの「カプリッチョ」はオペラなのだが、オペラといっても色々な和訳をせねばならない。単純に「歌劇」とすればいいのだろうが、ワーグナーのように「楽劇」とか「舞台神聖祭典劇」と称したりもする。シュトラウスの「薔薇の騎士」も楽劇と称して「歌」より「音楽:管弦楽」に重点が置かれた作品であるかの如くの印象を強くすることとなる。通常・・オペラの題名は主人公の名前がそのままに称されることが多いのだろうが、このオペラは・・なんと音楽用語そのままだ。音楽辞典によれば・・ a capriccio 即ち、曲想を表す標語・・奏者の自由に。形式や拍子にこだわらずに。capriccio は「気まぐれ」「わがまま」「奇抜さ」の意味・・また、或いは、厳格な形式によらず、感興のおもむくままに作られた器楽曲・・とある。訳すると「奇想曲」となって、身近にはチャイコフスキーの「イタリア奇想曲」やリムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」などがある。もともとナンバリングオペラの枠から完全に外れて、自由な作風の交響詩の延長線上にオペラがあるような?作品だ。サブタイトルに【音楽のための1幕の対話】・・とあって、2時間半もの長時間を要する極めてシブチンな作品のようでもある。(全曲聴いたことなどあるハズもなく、全曲を聴きたいという意気込みもありまへん。^^) オペラの音楽と言葉とはどっちが大事なのか!?・・といったテーマで台本が作られて、オペラの中でオペラを考えるというケッタイな作品だ。凡人に言わせれば・・そんなもん「音楽」に魅力が無ければ、音だけのCDなど誰が買いまっか!・・となるわけで、その証拠に指揮者があのクライバーであっても・・台詞フル装備?の「こうもり」など・・アクビの連続ともなる。同じ言語圏の特定地域の高尚な御仁にだけ理解されるという「音楽」には有るまじき効果なのだ。大和の国のどれだけの人々が、ドイツ語の冗談や込み入ったハナシを理解できるといえよう。。対訳なんぞ見ながら聴いたとしても・・気持ちの中で昇華するまでにはタイムラグが生じるのだ。分かった気になっただけで然も有りげな批評をされる御仁も数多おられるが、ドイツ人と生冗談?が交わせるお方でなければ「言葉」を論じてはならないのだ。そんな極めつけの凡人(別称:不良音楽愛好家とも云う)のために・・シュトラウスは短くも痺れるような小曲を挿入してくれた。。「月光の音楽」・・3分余りと短いが、ドビュッシー・ベートーヴェンと並ぶ月光作品のベスト3を占める逸品だ。3分間といえば・・カップ麺の待ち時間だ。そういえば、ドーナツ盤時代の流行歌は演奏時間一曲片面平均3分だったような気がする。カラヤン先生の逸品「オペラ間奏曲集」など・・「カヴァレリア」と「道化師」だけでもドーナツ盤にシングルカットして売り出したら・・ひょっとしたら意外にも・・ヒットチャートにくい込んだかもしれない。。
◆さて、「カプリッチオ」。。シュトラウス最後の作品なので独特の和声感そのままに音楽的には洗練の極みだ。そしてまた・・しかしなが・・そんな不良?クラシック愛好家が・・たとえフィナーレだけでも聴いてみようと思うキッカケとなったのが、晩年のカラヤン先生がアンナ・トモワ=シントゥと録音したシュトラウス作品集の一角としてリリースされたCDにこれが収録されていたからだった。。「4つの最後の歌」から始まって「伯爵夫人のプロローグ」で終るという全てトモワ=シントゥとの歌絡みの作品ばかりを集めたプログラムで構成されていた。そして・・ブッチャケ歌モノ苦手とする我が身にあって・・唯一の慰めになったのが「モノローグ」の前に収録されていた演奏時間僅か3分余りの「月光の音楽」だったのだ。演奏会のアンコール曲としてやられたら・・メインプログラムからの流れにもよりけりだが・・聴衆一同メロメロに溶けてしまうような曲想でもあり、カップルなどは気持ち?の押さえようがなくなってしまうのではないか・・などと野暮なことまで想像したりしてしまう。。^^; もっとも、主席ホルン奏者にとっては・・アンコールにまで胃が痛くなるような曲はご免被りたい!と・・万一これがアンコールに選ばれた時には・・演奏会当日に親族の誰かのお通夜をでっち上げねばならないことになる。そういった策略を秘めた時には、必ず2番奏者をつかまえて・・帰りに一杯どう?・・などと・・耳元でのたまうこととなる。メインプログラムがチャイコフスキーの第5交響曲やドヴォルザークの「新世界から」などの時には2番ホルン奏者は注意が必要だ(?)。。
◆シベリウスのシンフォニーは番号を追うごとに純度が極まる。スポーツドリンクから始まって・・ミネラルウォーターを経てH2O(純水)の世界へ到達するかのよう。。僅か20分の単一楽章の中に「心の宇宙」を凝縮させた逸品中の逸品だ。聴く者にとっては気持ちの中で解凍できるかどうかで宇宙観を実感できるかどうかが決まる。・・そう、ノーテンキに「ながら聴き」などできないのだ。宇宙観を実感するということは・・人生を達観するということだ。我が身を振り返って・・「今」の自分に「これでいいのか?」と問いかける。。「これでいいのだ!」と納得できてしまうようなら・・シャトルの貨物室にでも忍び込んで・・もはや本物の宇宙空間を生身で漂うしかない。。「こんなもんとちゃうかいな?」くらいのことなら・・地球上で最も宇宙に近いエベレストの山頂で1週間ほど座禅の修行に励まねばならない。万一にでも「いいわけないでやんしょ!」と即答できた御仁にのみ・・今一度孤高の第7交響曲の聴きこみにチャレンジできるのだ。ニンゲンの生き方など・・矛盾の塊のようなもの。。本音と建前・・愛しさと憎しみ・・希望と不安・・などなど相反する要素を一つの袋に閉じ込めて歩まねばならない。嗚呼!・・・あないにいい人がなんでこんなことを。。などと云われぬように・・・ヤブラカタブーラ・・はんにゃーみーたー・・なんまいだーー・・やアぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜メぇーーーン!!・・・気合が足らん!^^; そんなこんなで・・ラットルさんは、シューベルトをベーレンライター版で演奏した。従前の「常識的な錯誤」をキッチリと改め、破天荒なシューベルトを暴いてみせたのだ。もっとも、ノリントンのようなトゲトゲしさはまるでなくて・・あくまでもなんとかかんとか・・ベルリン・フィルとしての面子を保ったサウンドだ。演奏の流れはカラヤン先生よりもなぜかいい。第1と第2楽章共々セカセカすることなく堂々としたフレージングだ。第1楽章コーダーへのアッチェランドも快適で、そのまま突っ走らないところは絶品。テンポ感だけに限って云えば・・全4楽章の時間バランスを含めて五指に入るお気に入りテンポだった。但し、ベートーヴェンでのチェンバーチック?な薄い響きではないが、蘇ったアクセント記号の効果かどうか、小回りの利く鋭い響きはプルトを刈り込んでいるようにも聴こえる。この辺のところが解説(アナウンサーの)にもなくモドカシイ。。何人の弦楽器で演奏した・・というデータは「響きの確証」のために是非ともほしい情報だ。映像のない放送規定に義務化すべき!・・とまで思っている。ベルリン・フィルはラットルさんの「革命」で新しい価値観を定着できるのだろうか・・シベリウスやシュトラウスはともかくとして、「古典」の伝統的な分厚い響きを「捨てた」ことが因循姑息からの脱却となるのか・・。それともベルリン・フィルのベルリン・フィルたる由縁を滅失することになるのか?・・10年経てば見えてくる。。2015年・・完全デジタルコントロールの世の中となって、ベルリン・フィルをロボットが指揮!・・なんていうニュースが流れるかも?? 音楽ソフトは全て固体メモリーかダウンロード販売となり、ここに100年余に渡って発展を遂げた音楽文化は絶滅することとなる。テクノロジーの革新は、ニンゲンを阻害し・・文化を廃絶せしめていることをデザイナーとエンジニアは全く解っていない。。
Disc No. 283  Title No. CDR-YSHD-182A/B-00
Disc No. 284  Berliner Philharmoniker  -  Mitsuko Uchida  -  Sir Charles Mackerras
182A 182B
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
CDR-YSHD-182A/B-00
サー・チャールズ・マッケラス
2003.11.05
内田光子 (Pf)
フィルハーモニー、ベルリン
ヤナーチェック:序曲「嫉妬」
FM/VHS
モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番
2004.08.18
ドヴォルザーク:交響的変奏曲
40'33|47'49
ヤナーチェック:シンフォニエッタ
★★★★☆ OIDT
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会 サー・チャールズ・マッケラス指揮 内田光子(Pf)
◆13名のブラスバンドとティンパニーだけの楽章で始まる「シンフォニエッタ」は特異な存在だ。短い時間ながら第1楽章はフル編成オケの「右代表」として、ティンパニーだけがブラスバンドの奏するファンファーレのバス音階に参加する。ティンパニーは突出することなくファンファーレのリズムを支え・・そして引き締めなければならないのだ。この微妙な音的バランスの生成のために、何人ものティンパニストが「影」に甘んじた。主役は13名の金管奏者なのだ。マッケラスはフル編成のオーケストラ代表としての「音」を誇りを持って叩くよう要求した。・・ティンパニーは遠慮の箍を外し、入魂の打ち込みで13本の金管と共奏したのだ。Sinfonietta ・・即ち小型交響曲なので、時間的には25分ほどしかない短い作品だ。そしてまた、ファンファーレが冒頭とフィナーレで登場するという華々しい音響効果を持つこともあって、心理的には演奏会の冒頭で演奏してほしい楽曲なのだが・・マッケラスさんはこれをメインプログラムとした。。ベルリン・フィルのような大所帯のオーケストラでなければ、総演奏時間10分にも満たない13名の別動ブラスバンドにエキストラフィーを捻出するだけの余力のあるオーケストラなんてものはそんなには存在しないハズだ。日本では、東京フィルだけじゃないだろうか(?)・・・そんなケチなハナシなどどうでもいいのだが、それにしても・・ベルリン・ブランデンブルグ放送(rbb-online)の収録は完璧だ。フィルハーモニーホールの残響感も豊かに絡み付いて・・ベルリン・フィルの全ての楽器が活き活きと鳴っている。テュッティーは鮮烈にして結構なエネルギーも載り、爆裂寸前の瞬間など全身に電気が走るが如くゾクゾクの極みを味わえる。ティンパニーも本革に破れんばかりのテンションをかけた・・硬質ながらも独特のハリの有る紛れも無いあのBPOティンパニーの音だ。フィナーレコーダの盛り上がりなどは皮の上でバチの跳ねる様子が波動となって身体中を駆け抜ける。こんな「音」・・DGのセッション商業録音でも聴けなかった。。DGの録った奥ポコ?ティンパニーで、よくぞカラヤンやクーベリックがアプルーヴァルしたものだと・・いまでも我が凡人人生100不思議の一角をしめている。
◆この演奏会は、チェコ音楽(特にヤナーチェック)の虜になった英国紳士の、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会へのデビュー公演だったらしい。何れもオハコの作曲家で構成されたプログラムは、研究の成果とも云える珍しい序曲が度肝を抜く。モーツァルトはピアニストのイメージに似合わず優しく円やかに情感を漂わせ、「オケの愛情」にぴったりと寄り添う。絶妙な音のバランスは、マイクアレンジという単純な理由だけではなさそうだ。内田さんにとっても、マッケラスさんにとっても大のお得意の作曲家であり楽曲なのだろう。。ラットルさんが弟子入りするほどの古楽器(奏法)の権威でもあるハズのマッケラスさんなのだが、ベルリン・フィル初登場ということもあってか・・そこまでは強要されなかったようだ。ノリントンさんは、スメタナさえ古楽器の楽団でザクザクとした粗削りなエモーションで聴かせたが・・ヤナーチェックやドヴォルザークともなれば・・そこまでする必要など無いのかもしれない。1980年にウィーン・フィルと英国デッカに録音した「シンフォニエッタ」のCDも比較試聴してみたが・・確かにデッカのセッション録音だけあってベールを剥がしたようなクリアなサウンドだ。ティンパニーの粒立ちも極めてリアルに立ち上がる。しかしながら・・今これを聴くと、ゾフィエンザールの乾いたトーンが全くウィーン・フィルらしくないし、なによりもパースペクティブがまるで無い。DSP6chに載せねばコンサートホールで聴くオーケストラのサウンドにならないのだ。。サウンドの好みの問題なので一概には言えないものの・・ミキシングコンソールの中で混じり合ったサウンドと空間合成されたサウンドでは真迫力がまるで違う。つまりは・・マイクロフォンが本物の「波動」を捉えた音なのかどうか・・という単純なことなのだ。アナログからデジタルへと移行しかけた過渡期の録音である以上・・仕方の無いことかもしれない。。その昔・・実験的にせよ2chでのステレオ録音を始めた1950年代中頃の録音が、マスターテープの劣化さえなければ物理的特性を棚に上げながらも・・音調やバランスで10年後・・或いはその後の録音に優るものがあるという事実こそ・・「音響は物理に非ず・・」の世界なのだ。何十チャンネルものややこしいマルチマイクアレンジなどをせずに、ステージ上にぶら下る吊りマイクをもって「マスのトーン」収録を主とした放送局の手法は・・意外にも極めつけの録音法なのかもしれない。シンプル☆イズ☆ベスト・・・ニンゲンの耳は2つしかないのだ。
Disc No. 285  Title No. CDR-YSHD-183-00
 Berliner Philharmoniker - Claudio Abbado
183
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
CDR-YSHD-183-00
クラウディオ・アバド
2004.06.05
:
フィルハーモニー、ベルリン
マーラー
FM/VHS
交響曲第6番「悲劇的」
2004.08.20
:
79'49
:
★★★★★ OIDT
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会 クラウディオ・アバド指揮
◆癌を克服されたアバドさんだが・・ベルリン・フィルへの気持ちは既に無く、音楽監督としてのシーズン最後の演奏会は単なる「お仕事」の範疇で終始したようだ。野球でいえば消化試合とも言えるのだが、音楽監督退任後に始まるルツェルンの新しいスーパーオーケストラへ夢を馳せて・・お得意のマーラーで締め括るところなんぞは・・やはり並みの指揮者じゃなかった。。新音楽監督ラットルさんに引き継がれて一見軌道にのったかのようなベートーヴェンの新演奏法も、手兵のキャパシティを満たさない中途半端なサウンドとなって決定打とはならなかった。オーソドックスなウィーン・フィルとの前回の録音の価値が上がって、ベルリン・フィルとの新録音全集をセコハンショップ送りにするパターンが多いとも聞く。バレンボイム率いるシュターツカペレの同じ時期の録音との対決でも完敗して・・DGのメンツ丸潰れともなったようだ。60年代前半に録音したカラヤンのベートーヴェンと共に一大メジャーレーベルへと成長したクラシック音楽ソフトのオンリーワン的レーベルも・・今や音楽監督率いるベルリン・フィルとの録音には疎遠となって・・屋台骨を無くしたかのような有様だ。アーティストがレーベルを渡り歩くことは・・アーティストイメージにとっては最悪となる。商業録音の世界では・・この「イメージ」こそ最も大切な要素であることは・・音楽(録音)がパッケージングソフトであることからも明白な事実なのだ。中身が例え同じものでも・・デパートの包装紙が違うだけで心理的な重量感?がまるで違ってくる。。そう・・・麗しき乙女にも・・ファッションによって軽くなったり?重くなったり?・・・クルマもそうだ。V8エンジン搭載のVIP仕立てのクルマが・・同じ大きさ同じ装備で・・A社とB社のクルマでは雲泥の差となって社会的評価が定まっている。これを覆そうなどといくら努力しても報われないのだ。潜在意識の中に固まった価値観というものは100年経たねば消滅しない。今はそんな時代じゃない・・というご意見が多勢を占めるご時世だが、安直な使い捨ての時代がまた始まっただけのハナシだ。電化製品は叩き売りでなければ消費者にアピールするものが何も無い・・・「昔」の感覚から見たら激安製品が所狭しと並んでいる・・こんなものまで!?・・と呆れるものまで100円ショップの棚においてあるほど・・モノの価値が下落した。そうなれば必然的に・・壊れたらまた買えばいい・・2〜3年もてばいい・・といった価値観に成り下がる訳だ。。子供のおもちゃが今や「おもちゃ」ともいえないハイテク装備の結構な金額のものが増えて・・クリスマスの時期ともなれば・・優良パパ族のサイフを悲惨な状況に貶める大いなる要因となっている。その昔・・「誠に遺憾に存じます。。」という流行歌があったが・・10年も経たない間にその時代に生きる子供たちの心の歪みが何らかの形で暴発することが日常化するような気がしてならない。。
◆マーラーの第6交響曲「悲劇的」は、そんな近未来への予感を挑発的に弦が刻むところから始まる。楽曲本来に秘めたマーラーの心境や宇宙観とは異なるかもしれないものの・・文明の進化に伴うオーバークオリティなニンゲンへの過剰サービスからの大いなるストレスを・・時空を超えて予見したかのようなエモーションが充満して・・結果として爆死する運命から逃れられないのは時世の行く末を暗示するかのようだ。平和ボケしきった大和の国の人々は・・やはり・・60年もの時が経つにしたがって「喉元過ぎればナントヤラ」で・・恐怖の実感をほとんど完全に消失してしまった。。水面下では着々と「準備」が進められて・・自衛隊員の募集は以前にも増してすこぶる積極的だ。国連を大義名分に・・傘の下の一員としての役割を半強制的に要求され・・広島と長崎での地獄絵図は棚の上の倉庫送りにもなりかねない雰囲気が出てきたようにも感じる。ハイテクゲーム機で「勝負の世界」に遊ぶ子供たちは・・何の恐怖や疑問も覚えずに・・命令の下ニンゲンを殺戮するための模擬訓練をしているかのようだ。そして、地獄絵図を知る世代が完全に死に絶えた時・・歯止めを失った時勢は不幸な歴史の繰り返しを躊躇しないだろう。。そんなこんなの過渡期とも云える21世紀初頭に・・これほどの強烈な音楽を浴びるとは思わなかった。カラヤン先生の「悲劇的」は、悲劇への暗示をフィルハーモニーの空間に封印するかのような窮めつきの音響美学をもって音楽を結晶化したのだが、ベートーヴェンとは違って・・ことマーラーともなれば・・アバドさんの「悲劇的」は凄まじいエネルギーの爆裂が聴ける。ライブだからこその爆燃現象なのかもしれないが・・ベルリン・フィルが殺気だっているかのようなサウンドなのだ。同じ音符配列から音化したにもかかわらず・・音化の哲学一つで飛び散る音符が赤くなったり青くなったりするのだから・・入魂の演奏というものは恐ろしくも気持ちに突き刺さる。アバドさんがそうしたのか・・ベルリン・フィルの楽員一人一人の自発的な気持ちからのものだったのか・・それは解らない。。解らないが・・結果として気持ちを震撼させたことには変わりないのだ。荒れ狂う打楽器の打音は「音」というよりも衝撃波だ。マーラーの打楽器はこうじゃなければならない・・というお手本のような見事な炸裂ぶりに何度全身電気が走ったのか分からなくなるほど。。金管と弦バスは打楽器との相乗効果もあってかフィルハーモニーの壁を突き破って地球を駆け回る勢いだ。3度のハンマーで英雄を打ち砕くハズなのだが・・ここでの英雄とは・・どうやら「皇帝」のようだ。。世界中にいる皇帝のような指導者たち・・・苦しみに喘ぐ一般市民の血の上に・・胡坐をかいて得た権力に溺れた虚像の紋章など・・ニンゲンの長い歴史のスパンから見れば・・正に「砂上の楼閣」なのだということさえお解りになっていないらしい。。
Disc No. 286  Title No. CDR-YSHD-184-00
 Prague Spring 2004 Opening Concert - Prague Symphony Orchestra - Jiri Kout
184
プラハ交響楽団
CDR-YSHD-184-00
イルジー・コウト
2004.05.12
:
スメタナホール、プラハ
スメタナ
BS/VHS
連作交響詩「我が祖国」
2004.08.28
:
75'10
:
★★★★☆ OIDT
プラハの春 国際音楽祭2004 開幕演奏会 イルジー・コウト指揮 プラハ交響楽団
◆「プラハの春」国際音楽祭の開幕は、チェコの国民的作曲家スメタナの命日5月12日から始まる。開幕演奏会は彼の代表作である連作交響詩「我が祖国」が必ず演奏される訳だが・・それをどの楽団が受け持ち・・誰が棒を振るのか・・というところが毎年のお楽しみでもある。超有名な「モルダウ」が第2曲で演奏されるが、やはり・・表立ってはここが指揮者によってかなり違った表現となる。楽団による音調の違いもあるものの・・指揮者の個性はそれを大幅に上回るのだ。毎年同じホール・・同じマイク(多分)なので、楽団の楽器配置を含めて・・同じ次元でその音的変化が味わえるところがなんとも面白い。ただし・・小林研一郎がチェコ・フィルハーモニーを振った歴史的な2002年開幕演奏会では、プラハの放送局の超絶的ボンクラ収録技師(技師と呼ぶにも奥がましい)によって・・NHK-BS2のBモードにして・・FMにも劣る超低レヴェルの音量と潰されたダイナミクスに愕然となったことがあった。。16bitの中・・12bitも使っていないようなサウンドを聴かされたんじゃ・・「炎のコバケン」たる爆裂ライブも台無しなのだ。DVD化或いはCD化の契約の下に行われたとしか思いようがなく・・開幕演奏会のオンエアがCDやDVDと同等なサウンドを発したのでは商売に障るからなのだろう。。・・と野暮な憶測を持たざるを得ないような軟弱なサウンドだから・・音源素材から蘇生する術も家庭では不可能となって・・エアチェックテープはアニメの録画用へとガキンチョ共の餌食に成り果てたのだ。それにしても・・2005年11月現在、未だにリリースされていない(できない?)ところをみると、1999年のチェコ・フィル来日公演でのサントリーホールで録ったDVDの存在が邪魔をしているのかもしれない。しかしながら・・「我が祖国」なら本家本元のスメタナホールでの開幕演奏会でなければ・・意味無いじゃん!・・ともなるのだ。本当に録ったのかどうかは定かではないにせよ・・これだけの歴史的価値のあるライブを録らないわけもないハズだ。NHK-BS2での再放送(クーベリックは10年以上かかったが・・)があったにせよ音源が同じでは録る気も失せるので、ここはスーパーエンジニア江崎さんの音源に期待する他はないのかもしれない。。
◆さて、プラハ交響楽団の演奏だが、「モルダウ」をこれだけ軽く演奏されると・・なるほど!「我が祖国」の第2楽章にすぎないのか・・と思ってしまうから不思議だ。第3曲「シャールカ」から休憩を置かずに続けて第4曲「ボヘミアの森と草原より」へ突入して・・「ターボル」から「ブラニーク」で全曲の頂点を構成するやり方は上手いといえば上手い!?かも。。後半に入ってのティンパニーの打音は前半の比ではなく、満身入魂の打ち込みで祖国解放への闘いを描く。管弦楽の音調は温度が上がって熱く迸り、オーケストラのイメージ(チェコ・フィルに比べて・・というバカみたいな潜在意識)を覆すほどだ。冒頭のハープの音色は手元にある音源の中でもベスト3の一角を占めるほど柔らかく魅力的で、その後の前半3曲での管弦打楽器が頼りない(・・というよりもこれが後半を引き立てる策略だったかも?)ので・・ハープから管弦楽のテュッティに至るゾクゾク感に乏しいのが唯一の欠点となった。個人的には・・前半3曲でも2〜3箇所は大いなる爆裂をしてほしいと願う部分があるのだ。3曲目終了後に休憩がある場合などは・・結構なストレスを溜めてロビーワインなんぞをヤケ飲みせねばならないんじゃないか・・などと思ってしまうのだ。そうなれば・・涎を垂らしてブラボゥーの嵐で目を覚ますことにもなりかねない。。アルコールで麻痺をした聴感覚は・・「ターボル」冒頭のティンパニーの強打をもってしても・・動中の静として通り過ぎてしまうのだ。あの極めて喧しいハズの電車の中で居眠りができるのも・・ガード下の一杯飲み屋で有線の演歌を楽しめるのも・・みな同じ理屈かも。。ところで、この年のプラハの春には・・どういう訳かはわからないものの・・なんと我が地元のオーケストラが出演したのだ。「招聘」という光栄な限りの音楽祭参加となって、ドヴォルザーク没後100年を記念した交響曲全曲割り当て演奏会の2公演分を受け持ったのだ。第2番と第8番をメインプログラムに据えた演奏会はスタンディングオベーションにまで達する大盛況だったと報じられたが・・・NHKは無関心で・・レーベルも全く動かなかったようだった。音の無い「大盛況」の報など有っても無くてもいいようなもので・・録音を残せなかったことを悔やんでいた時に、楽団自主制作のライブCDが発売されていたことを知ったのだ。さすが楽団!・・少なくともアーカイブとしては録っていたハズなれど・・市販するほどデキが良くなかったのか??・・と思っていた矢先だっただけに悦びも一入となり、HPから発注したCDを首を長くして待っていた。ところが・・演奏や録音はともかく・・これが「ライブ音盤」として全く期待を裏切られたのだから・・知らぬが仏?の方がマシだったと悔むところとなってしまった。演奏や録音を棚に上げても失望することとはなんぞや?・・・番外編として下段枠に駄文レビューを投げつけてある。
Special Review  CD   CRCC-2001/2  P:2005 Nagoya Philharmonic Orchestra
 Prague Spring 2004 - Nagoya Philharmonic Orchestra - Hideaki Muto/Tomas Hanus
CRCC-2001/2
名古屋フィルハーモニー交響楽団
CRCC-2001/2 (2CD)
武藤英明 | トーマス・ハヌス
2004.05.23|2004.05.24
:
スメタナホール、プラハ
ドヴォルザーク
24bit/96KHz Live Recording
交響曲第8番|第2番
P:2005.02.23 Nagoya Philharmonic
スラブ舞曲 op.72-1, -7|op.72-5
46'29 | 51'06
:
★★★☆☆
プラハの春 国際音楽祭2004  名古屋フィルハーモニー交響楽団 ライブ・イン・プラハ
◆無いと思い込んでいたものが「在った!」時の喜びは、演奏会全部のプログラムではない・・とか、演奏上の結果的な問題点・・とかのことなど・・どうでもいい?次元に飛ばしてしまう。少なくとも強豪ひしめく「プラハの春」でのスメタナホールのステージに載った名フィルの2公演各々の演奏会後半の雰囲気を・・アンコールまで含めて聴けることを素直に慶びたい。・・と思ったものの・・このCD・・ライブ録音としての意味が全く解っていない姑息な編集ものだった。ドヴォッ8演奏終了後、僅か20数秒の拍手でアンコール曲へ突入。(そんなバカな時間の流れってあるんかい?)・・スタンディングオベイションがあったという拍手の熱狂は見事カットの憂き目にあっていた。そうすると・・楽章間の切り詰まったインターヴァルも本物の時間の流れではないのか?!・・・熱烈な2曲目のアンコール曲後の拍手など邪魔者扱いで即座にフェイドアウト。80分もの収録キャパのあるCDなのだ。演奏会の「後半」・・チューニングから・・拍手終了楽員退場まで・・そっくりそのまま無編集で収めても・・まだ余裕綽々のハズ。大手レーベル制作のCDと違って、自主制作というコマーシャルベースから外れた存在の音楽ソフトには・・大手レーベルでは絶対やらない編集構成の手法がなければならない。ライブ盤といっても・・ドヴォルザークの交響曲2曲をタイトルとしてスラブ舞曲3曲をオマケにつけました。。と云わんばかりの構成だ。そこには、「プラハの春」国際音楽祭という雰囲気も無ければ、ましておや・・ドヴォルザークのシンフォニーを目的に購入するCDなら他に聴くべきCDは数多ある。こういったライブCDに求める価値観とは・・日本のローカル楽団が国際的なメジャー音楽祭のステージで光栄にもスタンディングオベーションを受けるほどの大熱演で大成功を収めた・・という「記録」なのだ。何も足さず何も引かず・・プラハまで行けなかった日本のオーケストラ愛好家(愛聴家)を時空を遡ってありのままの演奏会へご招待してこそ・・プラハの演奏会はこんな雰囲気でした^^・・と語れるんじゃないだろうか。。
◆演奏会のライブと銘打った放送でも・・本物の雰囲気(臨場感)の味わえるのは唯一NHK-BS放送のライブ番組だけだ。映像があるからではなく、アナウンスをテロップに任せて・・音声はコンサートホールのマイクが拾った音だけが飛んでくる。時間枠なのか編集の都合なのかは判らないが、最近では演奏終了後の模様を楽員退場まで収録せずに拍手の途中でフェイドアウトする場合が多くなったことは残念至極なのだが、それでも、コンサートホールの扉を開けて・・聴衆のざわめきの中に席に着き・・楽員登場からチューニング・・といった本来実際の演奏会でしか味わえない雰囲気を再現してくれている。演奏終了後の拍手フェイドアウトは・・拍手の途中でロビーへ出る時も間々あるわけで・・そこそこの時間拍手の収録があれば許せる範囲なのかもしれない。。しかしながら、ロビーに出る出ないはリスナーが判断すべきことで、放送時間枠の許す限り・・楽員退場までの雰囲気は収録してもらいたいものだ。市販音楽ソフトでの「ライブ」などは酷いものだ。「場」の雰囲気は演奏のみに在るわけじゃない。もちろん、録音の意義(楽曲のための収録か演奏者の記念公演の記録かによっても変わってくる)によっては構成や編集も変わることは当然だ。楽団自主制作のCDには、楽団の意思表示が明確に表れていい。。というよりも・・もっとポリシーとフィソロフィーを持つべきだ。レコード会社にはない(できない)発想で特別のこだわりをアピールできる絶好のチャンスなのだ。>>楽団の貴重なアーカイブとして・・プラハでの公演の全貌をドキュメントとしてお届けします。・・このCDをお買い求めになった方は・・スメタナホールの扉を開けてから・・休憩時間を除くホールを出るまでの音がありのまま収録されています。・・・万一ドヴォルザークの第8交響曲だけお聴きになりたいという場合にはトラック番号2からスタートしてください。・・そして、演奏終了後の熱狂的な拍手の時間を持て余される場合には・・アンプのヴォリュームを適所でお絞りください。<<みたいなことを帯の裏とブックレットのどこかにでも書いておけば・・世界唯一の本物の「ライブ録音盤」として認定され・・本家本元の原盤音源の楽団としてオンリーワン!たる存在に昇華するのだ。
Disc No. 287  Title No. CDR-YSHD-185A/B-00
Disc No. 288  Czech Philharmonic Orchestra  -  Jiri Barta  -  Jiri Belohlavek
185A 185B
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
CDR-YSHD-185A/B-00
イルジー・ベロフラーヴェック
2004.05.02
イルジー・バールタ (Vc)
ドヴォルザークホール、プラハ
:
BS/VHS
ドヴォルザーク
2004.08.28
チェロ協奏曲
43'30|43'47
交響曲第9番「新世界から」
★★★★☆ OIDT
ドヴォルザーク没後100年記念演奏会 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 イルジー・ベロフラーヴェック指揮
◆2004年「プラハの春」国際音楽祭開幕演奏のお役目から外れたチェコ・フィルが、開幕10日前に行ったドヴォルザーク没後100年という記念演奏会だ。奇しくも国際音楽祭のオーケストラコンサートでは、ドヴォルザークの全9曲の交響曲が1曲づつ毎回のコンサートに組み込まれて、番号順に第1番をプラハ交響楽団(リチャード・ヒコックス指揮)、第2番を名古屋フィルハーモニー交響楽団(トマーシュ・ハヌス指揮)、第3番をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団(クリストファー・ホグウッド指揮)、第4番をプラハ放送交響楽団(ロベルト・モンテネグロ指揮)、第5番をプラハ交響楽団(セルジュ・ボド指揮)、第6番を英国BBC交響楽団(レナード・スラットキン指揮)、第7番をライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(ヘルベルト・プロムシュテット指揮)、第8番を名古屋フィルハーモニー交響楽団(武藤英明指揮)、そして第9番をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団(ズデニェク・マーカル指揮)といった具合の割り当て?演奏会だったらしい。プラハ地元の3つのオーケストラ以外に英国・日本・ドイツから招聘された楽団が担当しているところに「国際音楽祭」たる所以がある訳だ。日本を代表するような楽団には程遠いにもかかわらず・・名古屋の楽団が「日本のオーケストラ」として招聘されたのには・・妙なところでの何らかの縁?があったのかもしれない。。この年の開幕演奏はプラハ交響楽団の担当だから・・プラハ響は大活躍をしたことになるわけだ。また、全ての公演で指揮者が違うところなども誠に面白い構成だ。プラハの聴衆は、開幕僅か10日前に聴いた「新世界から」を、音楽祭では同じチェコ・フィルでも違う指揮者で聴けるという幸せを掴んだのだ。本当に羨ましい限りに思う。
◆さて、この演奏会はもちろんチェコ・フィルの本拠ドヴォルザークホールで行われたのだが、ここは「途轍もなく?」響きのいいホールらしい。座席数1100席の中規模ホールだからこその残響感とでもいえるのか・・多分ウォーム系のトーンなのだろう。同程度のホールとしては、ミュンヘンのヘラクレスザールが有名だが、こちらは壁面が大理石貼だ。一方ドヴォルザークホールは木質系。音調の違いは歴然となるだろう。エクストンの江崎氏が惚れこんだホールとしても有名で、ホールの地下にこのレーベル専用の録音スタジオまで設けてあるという。チェコ・フィルの美麗な音色は、このような響きが豊かで少し小ぶりなコンサートホールで育まれた音だ。ウィーン・フィルがムジークフェラインでそうだったように、やはりオーケストラの個性豊かな音色は・・コンサートホールとの相乗効果で育つものだとあらためて実感することとなった。チェロ協奏曲の出だし・・独奏チェロが登場するまでの管弦楽の序奏部分だけ聴いてもゾクゾクするほどの柔らかいトーンだ。チェコ人のチェコ人によるチェコ人のためのドヴォルザークコンサートは・・本当に自然なままの音楽が充満していた。白熱の・・とか爆裂云々とかのインパクトはまるで無いのだが、気持ちに訴えかけてくるものが溢れこぼれて・・独奏チェロをロストロポーヴィッチと比べるようなバカな考察などナンセンスの極みとなって、ただただ音楽の中へ没頭してしまった。プラハの放送局の収録は上の中?といった素晴らしいサウンドだった。管弦打楽器のどのセクションにも不満がなく、独奏チェロと管弦楽とのバランスも最前列から2〜3列までのセンター席で聴くような感じだ。特別な誇張がなく、重心の低いチェロの音色が堪能できる。ティンパニーはほんの少し抜けが悪いものの・・これも過去に聴いた別のオーケストラの別のホールでの会心のティンパニーと比較してのことであって・・ドヴォルザークホールでチェコ・フィルが演奏する時にはこんな音で響くのかもしれない。近接マイクでない限り、ホルンと打楽器の音調はホールの音調に直結して管弦楽の響きに載る。ホールの響き(残響の時間と音調)によってマイクへの載り方が相当変わってくるのだ。それにしても、これだけのウエルバランスの管弦楽は滅多に聴けないんじゃないか。。
◆ドヴォルザークは、本来のチェコ語ではドヴォジャークと発音するらしい。アントニン・レオポルド・ドヴォジャークが51歳の時に、ニューヨークの国際音楽院の院長先生として招かれたということも、スラブ舞曲集の譜面が大ヒットしたお陰なのだろう。。リアルタイムの通信手段の全く無かった当時としては・・既にプラハ音楽院の教授という社会的地位を持っていたとはいえ、その名声が大西洋を越えたのだから大したものだ。多分単身赴任だったのだろうが・・今と違って飛行機で半日もあれば帰れるというわけにはいかない遠方の異国の地で、やはり仕事を離れて一人となった時には家族や故郷のさまざまな有様が走馬灯のように浮かんだのではないかと察するに余りある。渡米してから1年目にして大作「新世界から」を書き上げたということは・・ホームシックの程度たるやもの凄いレヴェルだったに違いない。。その名も「アメリカ」との愛称のある第12番の弦楽四重奏曲からの3曲と2曲の独奏チェロと管弦楽のための小品などを作曲したものの、チェロ協奏曲ロ短調は1896年だから帰国後の作品となる。しかしながら4年間にも及ぶニューヨークでの生活から想いを馳せたようなフレーズの数々は「新世界から」と妙なところで結びつくような気がするのだ。人間の心境変化にはタイムラグがあるってことなのか?・・・前年に帰国しているのだが、気持ちはニューヨークに残っていた・・みたいな感じとして・・纏綿たる想いが音符に載っているのだから恐れ入る。同じボヘミアチックでも、第8交響曲のそれとは土台がまるで違うのだ。ニューヨーク・フィルが「新世界から」を初演したという。。そして、帰国後のプラハ初演はこのドヴォルザークホールで行われたとのことだ。あるサイトの旅行記で、地元の人に「ドヴォルザークホールはどこにありますか?」と尋ねたら・・・???・・・となったらしい。この辺がややこしいのだが、正式には・・ルドルフィヌム(芸術家の家)はどこにあるのか?・・と尋ねなければならないようだ。一方、開幕演奏会の会場となるスメタナホール(1077席)は・・オベツニー・ドゥーム(市民会館)というらしい。確かに天井はドーム状になっているが・・ドームとドゥームとは関係無いのかも?。
Disc No. 289  Title No. CDR-YSHD-186-00
 USSR State Symphony Orchestra - Evgeny Svetlanov
186
ソビエト国立交響楽団
CDR-YSHD-186-00
エフゲニー・スヴェトラーノフ
1982.06.09
:
モスクワ音楽院大ホール
フランク:交響曲ニ短調
CD (SCRIBENDUM SC-035)
サン・サーンス:交響曲第3番
CD-Edit (OIDT)
:
76'56
:
★★★☆☆ OIDT
エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮 ソビエト国立交響楽団   爆演の蘇生(1)
◆サン・サーンスの「オルガン交響曲」にも、スヴェトラーノフの「爆演?盤」があるとの「噂?」を聞くに及んで、大手輸入CDショップへ駆け込んだ。YEDANG という韓国のレーベルだが、きちんとしたライセンス契約に基づく正規盤だ。ウィーン・フィルで・・ムジークフェラインで・・との夢と同様に、ロシアの「炸裂パワー!」で・・との夢もあった。オリジナル録音テープから(直接?)24bit/96KHzでデジタルマスタリング(アメリカのNurral-Audioという会社の制作らしい)したとの然もありげな謳い文句が印刷された裏ジャケットからは・・並みの音ではないという予感さえ漂っていた。夢叶いし・・・と喜んでCDプレイヤーのボタンを押した。。スペアナを見ても判るように、音質自体はそんなに悪くは無かった。曲の出だしからは、フィナーレに向かってのワクワクするような期待感さえ感じられたのだ。スペアナ左から4本目(50Hz)の柱はコントラバスの基音なのだが、このエネルギーがたまらなくいい。スペアナの第1楽章のピークホールドのエリア(第1楽章第1部7分15秒あたりから約1分間)はフォルテ2つ(フォルティシモ)の区間で、この後にこの楽章の最強音フォルテ3つが現れる。問題は、その部分と、オルガン・バスドラム・シンバルが加わって満身の炸裂をするハズのフィナーレコーダの音量感が同じ?若しくは逆転しているのだ。エネルギー感のないフィナーレを迎えること程辛いことは無い。それまでの期待感が裏切られ、リスニングタイムが「骨折り損のくたびれ儲け」と化するのだ。音を出すにも、アンプを安定させるまでに少なくとも30分以上かかる。夏場ならエアコンで規定の室温にするのには・・それなりの時間が必要だ。冬場なら、さらに時間がかかる。・・全てを安定させて、いよいよ・・!となるわけだ。モーツァルトなら問題もないだろう?。しかしながら、バスドラムとシンバルの入ったガッキョクは、ましておやオルガンまで加わるとなればひっくり返っては聴けないのだ。
25/31.5/40/50/63/80/100/125/160/200/250/315/400/500/630/800/1K/1.25K/1.6K/2K/2.5K/3.15K/4K/5K/6.3K/8K/10K/12.5K/16K/20K (Hz)
第1楽章・第205小節(K)〜約1分間 第1楽章・第205小節(K)〜約1分間 第1楽章・第205小節(K)〜約1分間
第2楽章・第2部冒頭・約1分間 第2楽章・第2部冒頭・約1分間 第2楽章・第2部冒頭・約1分間
フィナーレ・コーダ・約2分間 フィナーレ・コーダ・約2分間 フィナーレ・コーダ・約2分間
YEDANG CLASSICS R.M. by Neural Audio SCRIBENDUM R.M. by Ian Jones Remastered from SCRIBENDUM
CD  YCC-0072 CD  SC-035 Private CD-R CDR-YSHD-186-00
◆イアン・ジョーンズがマスタリングをやり直したCDが出た。。この男の名前が無ければ買わなかったCDでもある。キーポイントは全てこの男の手腕にかかっていた。カップリングの「フランク」など・・どうでもいいのだ(?)。YEDANGでの失望感の払拭のみに期待したCDだった。音を出して我が耳を疑った。YEDANGのドンシャリ感に比して、本来の自然なオーケストラのサウンドが蘇っていたのだ。ひょっとしたら・・これが本来のマスターテープそのものの音で・・YEDANGの方がイコライザーで弄った可能性もある。しかしながら・・マスターテープの音が判らない以上、一応イアン・ジョーンズの「整音」の成果としておこう。・・・BUT!・・・やっぱりダメだった。レスピーギ同様にダイナミクスの「流れ」には全く無頓着だったのだ。大体において、通常編成の第1楽章のフォルテ2つの全合奏と・・強烈ダガッキにオルガンまで加わるフィナーレコーダとが「同じ音量」な訳がないことくらいバカでも解る。このダイナミクスの「自然な流れ」を蘇生させることこそ・・マスタリングエンジニアの「技」なのだ。制約の世界からの解放は、満身の力を込めて演奏した「芸術家」への畏敬ともなる。オンガクとは何なのか?・・何のためのダガッキなのか?・・・本来のダイナミクスを失った音は絶対に「魂」を揺さぶらないのだ。最近はDVDプレイヤー開発の恩恵で、CDプレイヤーにもスーパーコンバーター(24bitというオーバークオリティといってもいいようなスペック)が搭載されるようになった。リマスターのCDを買わなくても、フツウのCDがCDプレイヤーの中で自動的に24bit処理(もっとも下位8bit分の微弱な信号は無視される)されるのだ。出てくる音は16bitしかないにせよ、最下位ビットの微弱な信号の「精度」が向上することになる。従ってオーケストラの広大なダイナミクスのほとんどは16bitの器の中にピアニシモまで実用的な精度で入れ込むことが可能になったのだ。右端縦列の自作CDRには・・手前味噌ながら・・見事?なまでの相対的なダイナミクスの流れが蘇っている。スペアナは周波数ごとのパワーメーターでもある訳なので・・その平均レヴェルが聴感上の音響エネルギーとなって認知されることになる。録音現場でエンジニアがフェーダーを絞った「量」を戻すだけのことなのだが、この作業は1週間ほどの夜な夜な仕事と相成って・・マスターディスク(HDD内)の完成後には悦びの気持ちと大いなるストレスが同居することとなって・・その後の1週間はヘッドフォンを被るのもイヤになる。この音源、残念ながらモスクワ音楽院大ホールのオルガンが効果的には収まっていない。マイクの位置がベダル低音基音(16Hzと32Hz)の最高波高(最もエネルギーが載るハズのパイプから1/4波長の距離)を捉えられなかったようだ。ステージ正面奥にあるオルガン(パイプ)とステージ上のオーケストラの同時収録にはメインマイクのベストポジションには相反する要素多々あって、ホールの形状によっては至極難しいのだろう。。ましておや・・当時のソビエト国営会社メロディアの録音など・・音さえ録れればいいじゃん!・・みたいなサウンドで、セッション毎にその品位は激しくアップダウン(エンジニアによってかも?)してたのだから・・玉石混合を額縁に入れたようなカタログといっても過言じゃないと思っている。そんな中にあって、このサン・サーンスは、音源自体「中の上」として・・粗削りながらもピカッと輝く魅力を持った音源だったことが幸いだった。近い将来・・サンクトペテルブルグ・フィルハーモニーでこの曲を聴くことが「夢」でもある。。
Disc No. 290  Title No. CDR-YSHD-187-00
 USSR State Symphony Orchestra - Evgeny Svetlanov
187
ソビエト国立交響楽団
CDR-YSHD-187-00
エフゲニー・スヴェトラーノフ
1980.02.20
:
モスクワ音楽院大ホール
レスピーギ
CD (SCRIBENDUM SC-021)
交響詩「ローマの祭」
CD-Edit (OIDT)
交響詩「ローマの噴水」
69'45
交響詩「ローマの松」
★★★★☆ OIDT
エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮 ソビエト国立交響楽団   爆演の蘇生(2)
◆ レスピーギの「ローマの松」は、唯でさえそのベラボウな音響によりフツウの音盤には収まりきらないダイナミクスを持っている。アナログの時代、リニアなダイナミクスを録ろうと最大音圧レヴェルに録音ピークを合わせると、ジャニコロの「鳥の声」など全く聴こえないことになる。理論上96dBのDレンジを持つ16ビットデジタルの時代でも、チャイコフスキーの「1812年」に勝るとも劣らない広大なダイナミクスは、録音プロセスにおける「安全装置?」の介入を余儀なくされた。レコーディングエンジニアは、ここぞとばかり知恵を絞り、末端リスナーへ然もありげな音を届けるために苦労?したのだと思う。ダイナミクスを自動的に圧縮するコンプレッサー、一瞬のオーバーピークレヴェルを自動カットするリミッター、そして、エンジニア自身の手によりリアルタイムに行うフェーダー操作(録音ボリュームコントロール)、などによって、それらをどのように組み合わせ、設定し、「レコード」という商品の音源にするのかというエンジニアの技量が問われることになる。商業レコーディングは当然にしてアーティストアプルーヴァルと呼ばれる演奏者の承諾がなければ商品化ができない。骨折り損のくたびれ儲け?となった録音が山ほど眠っているとも聞いている。この「ローマ三部作」はどうだったのだろうか・・・? スヴェトラーノフさんは、旧ソビエト時代に国策レコード会社「メロディア」へ物凄い量の録音をしたらしい。次から次へとスケジュールが被さり、イチイチ録音の成果など確かめてはいられなかったのではないだろうか?。メロディア任せで「後はヨシナニ?」のことだったのだろう・・・。同じ録音年代でもナカナカのものと劣悪なものとが混在している事実が物語っている。晩年スヴェトラーノフさんが「江崎録音」に惚れ込んだ理由は、自身の「集大成」を高品位かつ安定的に残したかったのだろうと思う。旧メロディアのように幾多のエンジニアが入れ替わり担当したのではピンキリのラインナップと成りかねない・・と思ったかどうか・・?。 それほど国営メロディアは酷かった。「質より量」を額縁に入れたようなポリシーだったのだ。
◆そのメロディアの音源(アナログ録音テープ)からCD化するためのデジタルマスターを作ったのがイアン・ジョーンズなるマスタリングエンジニアだった。英国EMIの本拠アビーロードスタジオの最高品位の機材を駆使して、スヴェトラーノフの爆裂クレッシェンドが蘇るハズだった。ワクワクした期待感をもって入手したCDを再生した。当然にして「ボルゲーゼの松」の出だしの音は、通常「かくあるべき」音量に設定した。家庭におけるオーディオ経由の再生最大音圧は、遮音施工の無い一般居室では80dB程度までだろう。100dBに達する「ホンモノ」と比べたら、−20dBの差は 1/100 のエネルギー差となるのだ。 これは正に「プラモデル」の世界に通じるスケール感の問題とも絡んでくる。誰しも1/1(ホンモノ)など端から望むべくも無いことくらい判っている。従って「スケールの大きさ」が問題となるのだ。全長1Mの「戦艦大和」と10cmのそれとでは、僅か 1/10 の違いにすぎないものが・・眼前では全く次元の違う姿を現すのだ。面積比で 1/100・・体積比で 1/1000 ともなると、迫力のみならずディテールの表現力など比較の言葉も見つからない程の迫力の差となって表れるのだ。もしもスケールの「正確さ」がXYZの3軸の中、一つでも違っていたとしたら、それは「ホンモノ」を歪めるトンデモない縮尺ミスとなる。逆に、故意にXYZをバラバラにスケールダウン(デフォルメとも云う)したもの(ファニートーイ?チョロQみたいなモノ)は「スケールモデル」とは呼ばない。オーケストラの家庭における「スケール」は、サウンドステージの中で可変する「再現スケール」に対して絶えずリニアでなければならないのだ。  
25/31.5/40/50/63/80/100/125/160/200/250/315/400/500/630/800/1K/1.25K/1.6K/2K/2.5K/3.15K/4K/5K/6.3K/8K/10K/12.5K/16K/20K (Hz)
ボルゲーゼの松・出だし1分間 ⇒ アッピア街道の松・フィナーレ1分間 ⇒ アッピア街道の松・終結和音のみ
上段スペアナ: CD SCRIBENDUM SC-021 by Ian Jones
ボルゲーゼの松・出だし1分間 ⇒ アッピア街道の松・フィナーレ1分間 ⇒ アッピア街道の松・終結和音のみ
下段スペアナ: Private CD-R  CDR-YSHD-187-00  by OIDT(Remastered from SCRIBENDUM)
◆さて、スヴェトラーノフさんの「ローマの松」。音質的には聴感上そこそこイイセンをいっている。デュトワ&OSMのウルトラ級の名録音と比べること自体酷なことだが、この録音の最大ポイントはマイクアレンジのせいか・・叩きのせいか・・?・・「アッピア街道」でのティンパニーの群を抜くド迫力だ。スペアナ左から8本目(125Hz)に高く聳えるバーこそ、凱旋兵士たちの塊となった鼓動なのだ。オルガンも響かずバスドラムのインパクトもほどんど無いという本来ならお粗末なサウンドが、このティンパニーとシンバル(ほとんど基音だけながら・・)とロシアンブラスの炸裂効果だけで活きているのだ。その凄まじさこそが「爆演」と呼ばれる由縁ではないかと想像している。ところが・・・このCD。「ボルゲーゼ」より「アッピア街道」フィナーレのエネルギーが小さいのだ。つまりは、曲の出だしの確たる音量感が・・クライマックスへリニアにつながらないことになる。音質が良くても、これでは「ローマの松」を聴く意味さえ無くなってしまうのだ。「爆演」との評判は、かくも情けないダイナミクスの流れの中でも生きていられるものなのか?!・・余りにも安直な「チョイ聴き」からの錯誤チックな評判が多いのにはただただ呆れ返るのみとなる。。そこで、名手イアン・ジョーズさんの登場・・となるハズなのだが、なんという「手抜き」なのだろう。24ビットの何KHzとかのマスタリングスペックなど機材を通すだけで自動的にこなしてしまうのだ。 何のために「ニンゲンの耳」があるのか?・・というところが置き去りにされてしまったようだ。メロディアの元々の音源がどんな状態だったのかは全く判らないので推察するしかないのだが、メロディアのボンクラエンジニアといえども、この程度の音質ならば寝てても録れてしまうだろう?。アナログテープに無事に収めることだけを目的として、ガッキョクの「真実の表現」などどうでもよかった?。。。つまりは全くのお役人的発想の「リスク回避主義的」なお仕事だったのだ。イアン・ジョーンズさんは何をしたのか?。・・・ 多少の「整音・イコライゼーション」をしたかもしれない。デジタルNR(ノイズレダクション)でテープノイズを取り去ったかもしれない。しかしながら、その程度のことなら機材さえあれば素人でもできるのだ。このような恥ずかしいマスタリングでも堂々と市販されることに恐れ入った。 
Disc No. 291  Title No. CDR-YSHD-188A/B-00
Disc No. 292  Berliner Philharmoniker  -  Sir Simon Rattle
188A 188B
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
CDR-YSHD-188A/B-00
サー・サイモン・ラットル
2004.08.28
:
フィルハーモニー、ベルリン
シェーンベルク:管弦楽のための変奏曲
FM/VHS
ベートーヴェン
2004.09.06
交響曲第9番「合唱付」
22'40|69'11
<ベーレンライター版>
★★★☆☆ OIDT
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 シーズン2004/05 開幕定期演奏会  サー・サイモン・ラットル指揮
Christiane Oelze(sopran) Birgit Remmert(alt) Jonas Kaufmann(tenor) John Relyea(bass)  Rundfunkchor Berlin
◆毎年年末に近づくと、テレビCMでは「第九」のあのメロディーが盛んにBGMとして聞こえてくるのだが、本当に迷惑千万この上ない押し付けBGMだ。著作権の期限切れをいいことに・・BGMのコストを安くあげようとの魂胆丸見えのお手軽安直な選曲なのだ。楽曲の意味深さを知ってるプロデューサーなら絶対に使わないハズなのだが・・その他のクラシック楽曲の断片的なBGMもまた然りとも云える。こうした安直な断片を集めたCDまでレコード会社がリリースしているので・・一部上場の大企業のCMに登場ともなれば楽曲の価値が上がる?・・みたいな錯覚さえ感じるほどになってしまった。100%それを否定するつもりはサラサラ無いし、事実・・その昔・・キャスリーンの擽られるようなリリックソプラノが映えたオンブラワイフなどは思わずシングルCDを買いに走ったほどだった。根本的な文化や価値観が違う日本在住の外国人(特に欧米人)の多くが、日本のメディアや街に流れるBGMが「押し付けがましい」と感じるらしい。BGMのみならず・・視覚的な看板やディスプレーの設置場所なども含めて、これを「聴け!」・・ここを「見よ!」・・と命令されているように感じるらしいのだ。駅や繁華街などでは・・音楽はイコール「騒音」だ。クリスマスの時期ともなれば・・聖歌が商魂に踏みにじられているかのように聞こえる。奥ゆかしさから一歩引いてBGMを活かそうと思っても、隣の店頭スピーカーからガナリたてる猛烈なありがた迷惑の音楽(騒音)にかき消されて・・選挙の宣伝カーの鉢合わせよろしく・・負けじとヴォリュームアップするわけだ。こりゃ・・どう考えてもBGM(バック・グラウンド・・・)の領域を超えて・・不特定多数の公衆へ向かってパフォーマンスをやってるようなものだ。日本人の耳は、こんな騒音にも慣れきって・・右から左へ・・左から右へ(左利きのお方はこうらしい)・・耳の中を貫通するのだから、やはり武士としての・・「動中静在」との秘術を・・DNAで受け継いでいるのかもしれない。。
◆さて、ラットルさんの「第九」だが・・今回のリスニングで当初の印象(最悪の演奏との・・)からは180度とまではいかないが・・それでも120度?ほど好印象に転換したことに自分自身驚いている。ザルツブルグ音楽祭への出演の都合で、シーズン開幕演奏会を前倒しして行われたらしいのだが、よくよく聴くと・・ベルリン・フィルが16型の通常編成で演奏しているような分厚いサウンドで、しかも弦楽器は古楽奏法で弾いていない。収録されたサウンドは基本的(素材として)には大変に素晴らしい録音で、フィルハーモニーの広大な空間を十二分に感じるほどの残響を伴って不足のないエネルギーを発している。コントラバスは胴鳴りはもちろんのこと・・実際のホールの前方列で聴けるようなゴリゴリという演奏ノイズまで聞こえてくるほどだ。弓と弦とが擦れて熱を発した温度感までもが伝わってくるような分厚い低音。。フルートとホルンはマイクアレンジのせいかどうか微妙に浮かび上がって弦楽器に元気満点に絡みつき、ティンパニーは充実した打音を炸裂させる。第3楽章は逸品ものだ。16分を超えるゆったりテンポでストリングスが極めつけの愛を歌う。音調も柔らかくも芯があり・・心の襞を微妙に揺するのだ。喜びのメロディーの盛り上がりはなかなかのもので・・ジワリ感は満点をつけてもいい。出だしのコントラバスは力強いピアニッシモを完璧に実現して・・数多の「第九」の音源の中でも五指に入るほど充実した響きだ。4人のソリストは指揮者の左右に配置されているようで、ステージ奥のコーラスとの対比も実際のホールの前方列センターで聴くようなバランスだ。アドリブのように聴こえるバリトンの歌いだしのフレーズや、各所に現れる特異なアクセントなどの表現にはチトついていけない感無きにしも非ずだが、21世紀のベートーヴェン!・・となるほどの衝撃的な変貌を遂げるまでには至っていない。まぁ、版の問題や重箱の隅の方に在るような僅かな音符や表現力の違いよりも、少なくとも・・ラットルさんが音楽監督として、ベルリン・フィルのあるべきサウンドでベートーヴェンを演奏した事実の方が重要だ。前音楽監督が無惨にも砕いたベルリン・フィルのベートーヴェンサウンドが、グランドシンフォニーオーケストラとしての在るべき方向へ振り子が戻ったということだけでも一安心できる音源ではある。。それにしても・・ベルリン・フィルのライブには余り聞かれないステージ上の「何か」の落下音やサポートマイク(サブマイク)にぶつかる音・・オーケストラか客席前列の椅子のギシギシと軋む音・・などなど・・珍しくも気の散る雑音多々あって・・ネガティブなイメージながら「ライブ」としての臨場感を大いに盛り上げていた。
Disc No. 293  Title No. CDR-YSHD-189A/B-00
Disc No. 294  Wiener Philharmoniker - Riccard Muti
189A 189B
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
CDR-YSHD-189A/B-00
リッカルド・ムーティ
2004.05.20
:
ウィーン楽友協会大ホール
モーツァルト
FM/VHS
交響曲第35番「ハフナー」
2004.09.24
オルフ
22'17|61'49
カルミナ・ブラーナ
★★★★★ OIDT
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 定期演奏会  リッカルド・ムーティ指揮
Ruth Ziesak(sopran) Matthisan Rexroth(countertenor) Christioan Gerhaher(bariton)  Wiener Singverein  Wiener Sängerknaben
◆合唱の神様とも言われているロバート・ショウが指揮した「カルミナ・ブラーナ」が、フツウのLP2枚分もの値段がした輸入盤から鳴り響いた時の衝撃は今でも忘れられないでいる。。クラシック音楽の海へと船出してから10年ほど経ったある日に、レコード雑誌の録音評が妙に気にかかっていて・・ショップの棚の中にあったそのLPを無意識のうちにレジへと運んでしまったような買い方だった。サイフの中身にほんの少し余裕があったせかどうか・・同じレーベルの高価なLPをもう一枚(確か・・マゼールさんの春祭だったような?)買ってしまったことを覚えている。当時・・キャノン砲のもの凄い炸裂をノンリミッターでカッティングをした「1812年」でオーディオ的な話題の頂点に君臨していた米国クリーブランドの新興レーベル「テラーク」のLPだった。このレーベルのサウンドは一種独特で、オーケストラの打楽器の鳴り方が半端じゃなかった。中でも・・バスドラムのパワー感は・・正に生演奏を彷彿させる優れもので、一旦このレーベルのバスドラムの波動を被ってしまったら最後・・他のレーベルで同じ楽曲などとても聴けたものではなくなるほどのパンチ力があったのだ。。ステージ前方にマイクを3本置いただけの超シンプルな収録法には一長一短が確かに感じられたものの・・例えば・・高域のエネルギーがあまりマイクに載らないことなどは、再生イコライザーで何とでも補正できることから・・素材としてのサウンドの品位はおそらく当時最高のものだったようだ。逆に言えば、高域へ向かってのエネルギーの減衰は・・量的な問題を棚に上げても・・これが本来自然なバランスでもある。もちろん、高域に基音エネルギーを持つ金属打楽器(シンバルなど)が炸裂する場合には、20KHzの可聴高域端までフラットな特性を示すことになるわけで・・金属打楽器の「効果」ここにあり!みたいなお手本を聴くことにもなったのだ。一方、他のほとんどのレーベルの音には、少なからず楽器の「強調」があって、木管楽器もヴァイオリンも・・金管打楽器を含んだフルパワーでのテュッティーでもキッチリとその存在が聴こえるほどの有様だ。席の位置によって一概には言えないが・・コンサートホールのXYセンター席で聴くバランスでも・・テュッティー炸裂の時には第1ヴァイオリンの音などかき消されてしまうのだ。その昔・・英国デッカが「フェイズ4」という超絶マルチマイク方式で録ったストコフスキーのLPを集めた時期があったのだが、パッと聴きの鮮烈な印象は・・2度3度の再生の度に嫌味へと変わって・・ついには埃を被って棚の中で眠りにつくことになった。ミキシングコンソールの中で合成したオーケストラサウンドなど・・音楽の息吹など全く無かったのだ。
◆さて、ロバート・ショウの「カルミナ・ブラーナ」冒頭のバスドラムでドカァーーン!と一発叩きのめされてから四半世紀ほど経った時、FMでムーティー&ウィーン・フィルのこの曲のライブを放送する旨の番組予定が目に入った。ムーティさんは、既に英国フィルハーモニア管弦楽団と英国EMIへ打楽器炸裂効果満点の録音をしているので、カルミナのオーディオチックな「録音」としては・・この2枚の音盤でもう間に合っている状態だった。ウィーン・フィルもプレヴィンとのDGでの録音がある訳で・・オザワ&ベルリン・フィルの熱狂的なライブもある。。いまさらFMなんぞ(?)でカルミナを録っても・・・との思い込みは、DGでも相当苦労したであろう楽友協会ゴールデンザールの豊満なホールトーンが肝心要の打楽器のインパクトをぼかしていないか・・ということや、その打楽器のインパクトがORFの収録で潰されたり、NHKのFM送り出しでコンプレッションがかかったり・・などのことからだったのだ。フィルハーモニアでのムーティさんの音創りとウィーン・フィルでのそれとが・・どう違うのかという単純な発想からのみのベクトルでテープを回すこととなったわけだが・・よくよく考えたら・・ムーティさんにとっては、フィルハーモニアでの録音から四半世紀も経った演奏の記録でもあった。そして、結果として・・これがとんでもない名演奏名録音だったのだ。もちろん、テラークのような床振動を伴うようなバスドラムの音などは無いものの、インパクト満点のティンパニーと気持ちのいいカンタービレで流れるように歌う弦楽器とカウンターテナーを含むソリスト陣のユーモアたっぶりの歌唱は従前どの音盤でも聴いたことの無い味でもって、カウンターテナーとバリトンは聴衆の笑いを誘うほどの「ノリ」の良さがあり、マンガチック?な歌詞に芝居っ気がたっぷりと込められて・・・ゴールデンザールでかくも「低次元」な歌詞を歌ってもいいのだろうか・・・と思うほど、世俗の風情が徹底してハダカにされ、ニンゲンの本性までもが露骨に曝されたのだ。ソプラノの・・乙女チックに愛らしさを振りまき甘酸っぱい香りをホールいっぱいに漂わせたような雰囲気はゾクゾクの極みだ。FMの物理的な制約が「ホンマかいな?」と思う程のド迫力で終結した瞬間・・思わず口にしたのは「ウソでしょ!・・」だった。
Disc No. 295  Title No. CDR-YSHD-190A/B-00
Disc No. 296  Berliner Philharmoniker  -  Open-Air Concert  -  Marcas Roberts Trio  - Seiji Ozawa
190A 190B
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
CDR-YSHD-190A/B-00
小澤征爾
2003.06.29
マーカス・ロバーツ・トリオ
ワルトビューネ野外音楽堂
ガーシュイン
BS/VHS
パリのアメリカ人
2004.10.02
ラプソディー・イン・ブルー
40'23|67'03
ピアノ協奏曲へ調
★★★★★
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ワルトビューネ野外コンサート2003 マーカス・ロバーツ・トリオ  小澤征爾指揮
◆野外演奏の録音は、スッピンの女神を拝む如く(?)・・良きにつけ悪きにつけ・・その艶めかしい楽器本来の音色がモロに表れる。マイクはマルチマイク超接近でのセッティングで・・弦楽器もプルト毎に林立するようなアレンジとなることが多いのだ。従って、その音調は・・コンサートホールで聴くホールトーンと融合した「こくまろ」な感覚からはほど遠く、繰り返し聴くべき音楽ソフトとしての価値など有って無いような雰囲気となる。元来、野外演奏会という催しは、特別企画の出し物?として、クラシック音楽(特にオーケストラ)の世界にあっては恒例化したコンサートなどはほとんど無きに等しい。そんな中にあって・・エジプトのカイロ、札幌のPMF、そしてベルリン郊外のワルトビューネはオープンエアでのコンサートが毎年必ず行われ、どういう訳か・・毎年一回こっきりしかないベルリン・フィルのオープンエアコンサートがコマーシャルベースにも載っかって超有名な催しとなってしまったようだ。コンサートホールの席ではご法度の・・飲み食いしながら芝生の上でひっくり返って聴く音楽を演奏するのが・・世界の両雄のかたわれたるベルリン・フィルなのだから・・世界一贅沢なお気軽コンサートの場となっている。カラヤンの時代には無かった企画だが、そもそもの発端は、定期会員の裾野の掘り起こしの目的らしかった。老年化の進むフィルハーモニーホールへ足を運ぶ定期会員の老年化を危惧したベルリン・フィルの事務局が、家族ぐるみでピクニック気分の気楽なコンサートをベルリン市民に提供することになったのだが、丁度ベルリン・フィルもシーズン打ち上げ的なウキウキ気分も加わって・・普段フィルハーモニーホールでは聴けないようなノリノリの演奏が繰り広げられる。子供が泣こうが騒ごうが・・カラスが鳴こうが鳩の爆弾が落ちようが・・お構いなしの気楽さだ。雨の日でも強行?されるようで、例え天気の良い日だとしても、弦楽器などは定期演奏会で使うような高額な楽器ではなく・・きっと壊れても諦めのつくような楽器で弾いているんだろうなぁ・・てなヤボな推測